中世の港湾都市として推定されている日本海に面した市浦村十三湊遺跡の平成11年度の発掘調査報告書は、平成12年3月に青森県教育委員会から刊行されました。しかし、印刷部数が500部と少ないため、報告書を必要とする全ての方々に十分行き渡っているとは言えないような状況です。

 そこで、印刷元の東北印刷工業株式会社(青森市合浦一丁目2-12 電話017-742-2221)さんのご協力により、Web上でも公開できるPDFファイルを作成していただきました。全体の容量は4.7Mとやや重いですが、120ページ余りの発掘調査報告書全体を文章、図版、写真、表など全ての要素について閲覧できるとすれば、考えようによっては軽いともいえます。プリンターで印刷しても、比較的高品位の印刷が可能であるので、手間暇をいとわなければ、手作りの発掘調査報告書を入手できるという利点もあります。気軽にダウンロードしていただいて、大いに活用していただければ幸いです。zyusanminato-2000.pdf(4.7M)
 なお、公開に当たっては、青森県教育委員会文化財保護課埋蔵文化財班の承諾を得てあることを申し添えます。
   
 


 十三湊遺跡は北日本を代表する全国でも有数の中世港湾都市遺跡として推定されていましたが、これまでは文献資料も少なく、十三湊遺跡を拠点に活躍していたとされる安藤氏とともに謎に包まれてきました。

 しかし、1991 年から1993 年の3 カ年にわたる国立歴史民俗博物館の調査によって、十三湊遺跡が大規模な都市計画をもった中世の湊町であることが分かってきました。

 このように、十三湊遺跡は日本の中世史を解明する上で重要な遺跡であることから、青森県では遺跡の早期の実態解明を目指し、平成7 年度から地元の市浦村と協力して発掘調査を行い、遺跡の全体構造の把握に努めており、今年で5 年目を迎えました。

 本年度は、家臣団屋敷跡と推定される場所と推定港湾施設地区の調査を行いました。家臣団屋敷跡では、柵・塀で囲まれた武家屋敷地が確認されました。

 港湾施設地区では、港の地固め跡と考えられる礫層が確認されるなど、大きな成果がありました。

 十三湊遺跡の発掘調査は来年度以降も継続してまいりますが、この調査成果が今後各方面の研究に活用され、また、地域社会の歴史学習や地域住民の文化財保護の意識の高揚につながることを期待します。

 最後になりましたが、平素より埋蔵文化財の保護に対し御理解、御協力を賜っている市浦村教育委員会、また、発掘調査の実施と報告書の作成に当たり御指導、御協力を賜りました関係各位に対して、心から感謝の意を表します。

 

 平成12 年3 月

                              青森県教育委員会

教育長 佐藤 正昭

 

第I章 はじめに

第1 節 調査に至る経過とこれまでの調査成果

 十三湊遺跡は、1991 年から1993 年にかけて行われた国立歴史民俗博物館の調査を契機として、中世都市の地割りを今に残す日本中世史上極めて重要な遺跡であることが明らかになった。このため、地元市浦村教育委員会では平成5年度に「遺跡整備検討委員会」を発足し、平成6 年度より調査・研究を進めている。

 青森県教育委員会では、平成6年度に大規模・重要遺跡調査研究を行い、国立歴史民俗博物館が作成した十三湊遺跡想定復元図に基づいて、6 カ年の発掘調査計画を作成した。各年度ごとの調査成果をふまえて、一部計画変更を行いながら、平成7年度から継続して調査を進めている。また、市浦村教育委員会が推定安藤氏館の調査を行い、青森県教育委員会が推定家臣団屋敷、町屋、港湾施設、宗教施設などの調査を行うという方向性がとられ、県と村が役割分担をしながら協力して調査を進めている。

 青森県教育委員会のこれまでの発掘調査は、推定家臣団屋敷と町屋地区を中心に進められている。

 家臣団屋敷地区では、出土遺物の年代から、13 世紀頃〜15 世紀前半まで屋敷地として使用されていたことが明らかになってきている。時期的な変遷や屋敷地内の構造などについては、まだ不明瞭なところが多いが、遺跡最盛期である14 世紀後半〜15 世紀前半には、板塀や柵列で屋敷地を区画し、屋敷地内に掘立柱建物や井戸、土坑を配置している様子が捉えられている。家臣団屋敷の西側では、幅約7.2 〜7.4m の南北方向に延びる当時のメインストリート(中軸街路)が確認されている。この道路跡に直交して東西に延びる屋敷群の北堀、東西道路跡も確認されており、家臣団の屋敷群が中軸街路に面した場所に配置されていたことが明らかになってきている。

 区画施設である堀や板塀、柵列は、時期ごとに主軸方向が変化しているが、最盛期には、遺跡を南北に分断する土塁の主軸方向とほぼ一致しており、計画的な都市計画の様相が明らかになってきている。また、15 世紀中頃になると、道路面に他の遺構を造ったり、堀を埋めたりする行為が確認されており、この時期、屋敷地内およびその周辺に土坑墓が広がる様相が捉えられている。このような様相は、推定安藤氏館とその周辺地区でも確認されており、都市様相が変容していることがわかる。

 一方町屋地区の調査では、幅約5m の中軸街路を挟んで、その両側に整然と町屋屋敷が広がる様相が確認されている。屋敷と屋敷は柵や溝で区画されており、敷地内には掘立柱建物と井戸を一つずつ配置している。中軸街路の東側では、街路に面した町屋の奥にも建物が広がっており、町屋が面的に広がる様子が確認されている。また、町屋南端では中世の畑跡が確認されている。

(鈴木 和子)

 

第2 節 調査要項

1  調査目的

日本中世史解明の上で極めて重要、かつ大規模な十三湊遺跡の早期の国史跡指定を目指し、発掘調査を実施し、遺跡の範囲・性格等を明らかにする。

 

2  調査期間

平成11 年6 月8 日から同年10 月31 日まで

 

3  遺跡名及び所在地

十三湊遺跡 青森県北津軽郡市浦村大字十三

 

4  発掘調査面積

672 平方メートル

 

5  調査担当機関

青森県教育庁文化課

 

6  調査協力機関

市浦村教育委員会

 

7  調査参加者

調査指導員 村越 潔 青森大学教授(考古学)

調査協力員 木村 義光 市浦村教育委員会教育長

調 査 員 佐藤 仁 青森県文化財審議委員会委員(歴史学)

高島 成侑 八戸工業大学教授(建築史)

山口 義伸 青森県史編纂室総括主幹(地質学)

小野 正敏 国立歴史民俗博物館助教授(考古学)

小島 道裕 国立歴史民俗博物館助教授(歴史学)

酒井 英男 富山大学理学部助教授(地球科学)

前川 要 富山大学人文学部教授(考古学)

調査担当者 青森県教育庁文化課

班 長 工藤 大

主 査 渡部 泰雄

主 事 松谷 泰英

主 事 鈴木 和子

主 事 工藤 忍

主 事 増木 智江

調査補助員 斎藤 克芳

調査補助員 稲葉美千代

 

第II章 調査の方法と経過

第1 節 調査の方法

 発掘調査区は、第91 次調査区(X=79.1 〜79.7 、Y=18.7 〜19.5 )、第92 次調査区(X=80.80 〜81.38 、Y=16.28 〜16.94 )、第93 次調査区(X=82.64 〜82.80 、Y=17.32 〜17.54 )、第94 次調査区(X=83.92 〜84.04 、Y=17.88 〜18.08 )に設定した。調査面積は、第91 次調査区約520 平方メートル、第92 次調査区約110平方メートル 、第93 次調査区約22平方メートル 、第94 次調査区約20 平方メートルで、合計約672 平方メートルである。

 調査は、調査区壁面で確認した基本層序に従って分層発掘を行った。基本土層には第91 次調査区ではローマ数字(I〜V)を付して呼称した。遺構の調査は、原則として平面上での遺構の形状、切り合いを確認し、その段階でまず上場のみの遺構平面図を作成するといった手順をとった。これは本遺跡が砂州上に立地し、遺構の崩壊が激しいためである。ついで2分法、あるいは4分法によって土層観察用のベルトを残し精査を行ったが、遺構自体やその近接する遺構を壊す可能性がある場合は、サブトレンチを設定するにとどめる等の対応をしている。精査を行ったあと、断面図及び下場平面図を作成した。遺構の実測は遣り方と平板測量で行った。遺物は、原則として遺構内外ともに出土地点を平面図に記録し、層位・標高を記録して取り上げた。

 写真撮影は、35mmモノクローム、カラーリバーサルの2種類のフィルムを使用し、必要に応じて、ブローニーのモノクローム、カラーリバーサルの2種類のフィルムも併せて使用した。また、遺跡の全景写真はフォトバルーンによって行った。

 

第2 節 調査の経過

 平成11 年6 月8 日に第91 次調査区を設定し、粗掘りを開始した。第91 次調査区での粗掘りがほぼ終了した時点で作業員を2 分し、第91 次調査区の遺構検出作業と第92 次〜第94 次調査区の粗掘りを進めた。

 第91 次調査区では、遺構の切り合いが多く遺構確認作業は難航したが、調査区西から東へと調査を進め、屋敷地を区画する柵列跡や井戸が確認されるなど、徐々に精査が進んだ。

 第92 次調査区で粗掘りを進めると、飛砂による堆積と考えられる砂層の下から礫層が検出された。

 第93 次、第94 次調査区でも、同様に、砂の堆積層の下から礫層が検出された。そこで調査員山口義伸氏に現地調査を依頼し、砂の堆積状況等について指導を頂いた。

 9 月22 日、市浦村において調査指導員、調査員、教育庁文化課職員、市浦村教育委員会職員による発掘調査打合会議と現場踏査を行った。会議終了後、掘立柱建物の柱穴の確認作業に力を注ぎ、調査員高島成侑氏に現地調査を依頼した。

 9 月30 日には報道機関に対して記者発表を行い、今年度の成果について報告した。また、10 月3日には発掘調査現場において現地説明会を行い、調査事務所では併せて出土遺物の展示も行った。この日は県内外から約100 名の方々が訪れ、熱心な質問を受けた。10 月19 日から遺跡保存のための山砂を入れ、埋め戻しを行い、10 月31 日にはすべての作業を終了した。

(鈴木 和子)

(以下、省略)


ホーム