北の文明・南の文明(下)−虚構の中の縄文時代集落論−第1回目
佐々木 藤雄

第1回目


 つい最近、国史跡の青森市三内丸山遺跡の集落論を語る上で、避けては通れ無くなると思われる論文に「遭遇」しました。「異貌」という一般の方はほとんど目に触れ得ないような雑誌ですが、25年くらい前に創刊された「息の長い」考古学関係の同人誌です。
 主宰者の佐々木藤雄さんが直接執筆された論文で、タイトルは「北の文明・南の文明(下)-虚構の中の縄文時代集落論-」(「異貌」第17号 1999年5月1日)です。中身は三内丸山遺跡の「集落論」に反駁をくわえたもので、三内丸山遺跡関係者からの反論が大いに期待されるような内容です。同人誌にひっそりと「埋もれさせておく」にはあまりにも大きな問題を指摘している論文と考えられるので、紹介させていただくこととしました。掲載にあたり、佐々木さんにはご快諾をいただきました。この場をお借りして、厚くお礼申し上げます。同誌を購入希望の方がいらっしゃいましたら、下記宛お問い合わせ下さい。
 長文の論文である関係上、2回に分けて紹介します。今回はその第1回目です。ご意見等がございましたら、掲示板に書き込みをして下さい。大いに論議しましょう。
 また、マスコミの皆さんに望むことは、「本家」発の情報だけでなく、このような「反対論」をも対等に取り上げていただくことによって、読者・視聴者に三内丸山遺跡を巡る多角的な視点を提供してほしい、ということです。

【問い合わせ先】◎申込先  〒248−0014 鎌倉市由比ガ浜4−6−17−2H(佐々木藤雄気付)
        ◎郵便振込 00120−5−61640番  共同体研究会



6 北の縄文都市・神殿・文明

 1995年11月19日付け朝日新聞朝刊の『現れた「縄文都市」』と銘打たれた『三内丸山遺跡特集』号は、『日本の文明、3000年さかのぼる』という衝撃的なタイトルとともに国立民族学博物館元館長梅棹忠夫のきわめて独自的ともいえる縄文都市-文明論を次のように紹介している。

 「私は、文明とは人間と装置群、そして制度群の総体である、と考えているのですが、三内丸山にはそれらがすべてそろっている。文明の起源が約3000年さかのぼったと考えていいでしょう。住居群が二つに分かれていますが、これはおそらく住民に階層があったことを意味するのだと思います。一方が庶民の住まいだとすれば、もう一方には神官層が住んでいたのではないでしょうか。そしてあの六本の大きな柱が見つかった場所が、まさに神殿であったと思っておるんです。あの太い柱は、その昔、非常に高い柱を持っていたといわれる島根県の出雲大社を思い起こさせる。弥生時代の遺跡である佐賀県の吉野ケ里にも、「望楼」といわれる高い建物があったといわれていますが、あれも神様の建物と考えてよいでしょう。私は、都市は神殿を中心に形成される、と考えています中東の古い遺跡や南米のアンデス文明でも、都市の中心には神殿がある。そして都市とは元来、神様のお告げを聞くための情報装置であり、交易や生産はむしろ二次的なものだったのです。・・・・・6本柱の建物を神殿とすれば、三内丸山はまさに私のいう都市の定義と一致する・・・・・。私はいま、日本の都市は、このような高い神殿を中心に形成された、という仮説が成り立ちはしないかと考えています。単純に縄文、弥生、古代と時代を区切る考え方は改めた方がいい。確かに社会を支える生業形態は変わっていきましたが、おそらくその他の文化的なものは引き継がれたのではないでしょうか。」(63)

 さらに1995年12月9日付け朝日新聞夕刊は、『想像以上に豊かな生活 最古の都市、三内丸山』というタイトルのもとに梅棹の縄文都市-文明論を再度大きく取り上げている。

 「日本ではこれまで『文明』というと、弥生時代以降と考えてきた。それが3000年以上もさかのぼるのだから大変なことだ・・・。都市は神様のお告げを聞くための場所として発達し、付属的機能として、交易や生産などの活動が行われた。縄文都市である三内丸山にも当然、神官がいたと考えていい・・・。太い6本柱の建物は神殿に間違いない。」(64)

 史的唯物論的な方法にもとづく体系的な人間社会史のもっとも先駆的な試みとして知られる『ドイツ・イデオロギー』 において、K・マルクスおよびF・エンゲルスは周知のように「郡市と農村の分離」を「物質的労働と精神的労働との最大の分業」として位置づけ、その歴史的意義を次のようにまとめている。「都市と農村との対立は未開から文明への、種族制から一国家への、地方分立から国民への移行とともにはじまり、そして文明の全歴史をつらぬいて今日(穀物法反対同盟)におよんでいる。都市の成立と同時に行政、警察、租税などの、つまり自治体制度の、したがってまた政治一般の必然性があたえられる。ここにはじめて、直接に分業と生産用具とにもとづくところの、二大階級への人口の分裂があらわれた。都市がすでに人口、生産用具、資本、享受、欲望の集積という事実をしめすのにたいして、農村はまさに反対の事実、すなわち孤立と分散をあらわしている。都市と農村との対立はただ私有制の内部でのみ存在することができる」(65)。

 以上のマルクスらの都市論と比較すると、祭祀的なセンターとしての 「神殿」を核に都市の成立や機能、さらには文明の形成を一義的に捉えていこうとする梅棹の縄文都市ー文明論の方向はまさしく対照的であり、字義通りの宗教的都市論であったといってよい。

 ところで、梅棹が神殿の跡であると断定し、かれの縄文都市文明論の大きな根拠として位置づけようとする6本柱の巨大木柱こそは、前号でものべた森本哲郎の「木の文明」論の柱となった遺構であり、“北の縄文王国”青森市三内丸山遺跡(図15)を象徴する存在としてその性格や構造がもっとも多くの議論を呼んだものにほかならない(66)。

 1994年7月、「4500年前の巨大木柱 20メートル級の建造物か−吉野ケ里しのぐ可能性」(67)というタイトルとともに発見が報じられることになった1辺8.4m、短辺4.2mの中期後半期の6本柱の巨大柱遺構の性格については、発見当初より高層の建物説と非建物説の大きく二つの流れを軸に、「物見櫓」説、「魚の見張り台」説、「灯台」説、「ウッド・サークル」説などの実に様々な珍説、奇説、仮説の類が提出されている(68)。

 それぞれの内容については詳述しないが、前述した梅棹の「神殿」説は前者を代表する見解といえるものである。2年後の1996年に推定復元されることになった三層構造の高床式の建物も、祭祀的な色合いの濃い、複合的な目的をもった非日常的な公共施設という基本的な構想に沿った形で具体化を見ており、屋根も壁ももたない、柱をむき出しにした一種荒々しい姿を見下ろす標高約20mの高台の上にさらけ出している(図16)。

 確かに三内丸山遺跡出土の直径約2m、深さ約2mを測る大形の柱穴のあり方は、内部に残されていた直径80〜100cmのクリの木柱痕とあわせて、通常一般の遺構とは同一視しがたい特殊な性格を強く印象づけているようにみえる。また、本遺構の平面形が1間×2間の明確な規格性を示していること、柱が直立せず、それぞれが内側にわずかに傾斜していることなども建物説に関してより説得的な材料を提供していたことは否定できない。

 しかし、たとえ三内丸山遺跡の巨大木柱遺構が宗教的色合いを強く帯びていたとしても、それを直ちに梅棹の唱えるような類の高床の「神殿」と重ね合わせられるかどうかは、いうまでもなくまったく別次元の問題である。木柱痕や柱穴の巨大さを別にすれば、梅棹のいう「神殿」説を裏付けるような考古資料は本遺構の周辺からは未検出であり、一方の住居群に「神官」の存在を予測させる遺構・遺物が遍在していたという報告も現在までまったく聞かれない。残された柱痕の太さから実体のきわめてあいまいな「神殿」や「神官」の縄文時代における存在を強引に導き出し、さらに神殿と都市の問題を核に縄文社会と弥生社会とがあたかも文化的・社会的な一体性、連続性を有していたかのような梅棹の議論の進め方は、ただ単に短絡的とか一方的といった言葉だけでは片づけられない、重要な問題をはらんでいたといわなければならない。

 それにもまして看過しがたいのは、復元された高床式建物の、佐賀県吉野ケ里遺跡の弥生時代の復元「物見櫓」をも2m近く上回る14.7mという高さである。

 当初は高さ20mもの高層建築の可能性が盛んに宣伝されていた本遺構の復元例が最終的にはロシア産のクリ材を用いた14.7mという高さに落ちついた背景には、直径1m、長さ15mを超えるクリの柱材を求めることが実際には不可能であるという現実的な問題があったといわれる。さらに、本来はこの上に付けられるはずであった屋根が結局取り外されることになった背景にも、技術的な問題だけにはとどまらない様々な事情や人間模様があったと伝えられる。

 しかし、そもそも残された柱穴や柱痕の大きさは上部構造の形状や高さをうかがう重要な手掛かりとなりうるものなのであろうか。20mであれ、14.7mであれ、何よりもこうした際立った高さをもつ建築物がこの時代に登場しなければならない歴史的な必然性が、本当に縄文社会の内部に存在していたのであろうか。

 ここで注目されるのが民族例を通してみられる高床形式の建築物の実際のあり方である。図17の1・2はタイ北部チェンライ近郊、ランナー・デイの高床式穀倉と、インドネシア・スマトラ島の西百数十kmのインド洋上のニアス島バウマクルオ村のニアス族の集会場である。

 前者の「穀倉は脚柱式で柱は太く、外側に踏ん張った形となっている。脚柱の上に床を張り、倉自体は小さく、周縁をめぐらせている。屋根は瓦葺きの入母屋造りである」。また、後者の「集合所(ハレ) は村会議事堂である。壁はなく柱と屋根だけの建物で、切妻屋根の妻に半円形の添わし屋根がついている。中央には太い4本の円柱が建ち、その脚元にはそれぞれ形の違った石椅子が置かれ、貴族の席となっている。四隅に建つ通し柱と妻側に建つ棟持柱が、構造の主体となっている」。因みに中の4本柱の直径は約80cmと三内丸山の木柱痕に近い数字を示しているが、前・後者とも、柱の太さの割には上部構造は低く抑えられており、巨大木柱構造の復元例とは様相を大きく異にしていることが指摘される。

 一方、図17の3は台湾三地門山地文化園に復元されたタイヤル族の望楼、4は中部山地霧社タイヤル族の望楼であり、非常時には戦闘員が詰めていたと思われるものである。いずれも高さは10m近くあるが、後者は「長い丸太をX型に組み、その上に竹床を組んだもので壁はなく、屋根は茅葺の切妻造り」と非常に簡素な造りである。前者は展示上の安全のため比較的堅牢な造りになっているといわれるが、全体の高さに比べると使用されている柱材は共に細く貧弱であり、特に後者はまっすぐに揃った丸太がほとんど認められないことが注意される(69)。

 すなわち、以上の民族例からも明らかなように、残された柱の太さは上部構造の形状や高さを規定する必要・十分条件とは決してなりえない。高さを維持するためには太く大きな柱が必要であるという考え、いいかえれば、太い柱の建物は高く、細い柱の建物は低いという考えは考古学者の誤った常識、一面的な物の見方でしかなく、むしろ現実に残された高床形式の建築物のあり方は、机上の推測を遥かに超える複雑多様な姿を通して、それとはまったく逆の見方もありうるという事実をわれわれに教えていたのである。

 しかも、三内丸山の巨大木柱遺構の20m説を証明する科学的な根拠とされた柱の下の土圧の測定結果も、実際に立てられた柱の全体の大きさや高さを推定するための客観的なデータとは決してなりえないことはすでに多くの指摘のあるところである。むしろ長く太い建築材の入手や運搬、そして建築技術上の困難さなどを考慮すれば、三内丸山の巨大木柱遺構は実はたかだか数mの高さしかもたず、逆に復元例には認められない屋根や壁を伴っていたという可能性をもわれわれは決して否定し去ることはできないのである。「天をつらぬく20mもの高層建築」(70)とは共同の幻想の産物であり、まさに砂上の楼閣という言葉がふさわしい。鹿児島県国分市上野原遺跡の ″シイの実形の家″をめぐって先に指摘した「文化財復元無用論」の動きを一層加速させる出来事であったというほかはない(71)。

 「縄文文化に対する過剰なロマンは、かえって縄文文化の真実をくもらせさえするものであり、本当のロマンは事実によってのみかき立てられるものである」(72)。シンポジウム 『縄文時代の考古学』の「はしがき」の中で小林達雄は三内丸山通跡の巨大木柱遺構をめぐる一連の狂騒曲を「ゴールドラッシュさながらの宝探し」、「雌伏一万年の縄文が弥生に勝ったと喝采し、さらに九州佐賀に東北青森が勝ったと萬歳せんばかりの騒ぎとなった」と揶揄しつつ、以上のようにのべている(73)。

 一体、柱が太ければ高層建築であるのか。柱が太ければ神殿に間違いないのか。高層の神殿さえあれば都市であり、文明があるのか。そもそも民話の一場面にも似た、山の高さならぬ遺構の高さ比べにはたして考古学のどのような可能性と未来とが内包されていたというのか。

 凡そ一片の論理性も科学性も認められない、こうしたきわめて稚拙かつ他愛のない議論のレベルから自らを解き放つ努力を、日本考古学は真剣に試みるべき時期に来ていたというべきであろう。


7 巨大木柱遺構と高床式倉庫

 折も折、弥生時代では佐賀県吉野ケ里遺跡や大阪府池上曽根遺跡をはじめとする巨大環濠集落の発見を契機とした「弥生都市」をめぐる議論が盛んである。ここでも議論の目玉は弥生時代の 「巨大神殿」 の存否であり、独立棟持柱をもつ池上曽根遺跡の巨大な掘立柱建物遺構をめぐるイメージ先行的な仮説、推測入り乱れての攻防は三内丸山の巨大木柱遺構をめぐる先の性格論議を思い起こさせるものがある(図18)。

 しかし、全体的にみれば、弥生都市論の現状は縄文都市−文明論に比べて遙かに冷静かつ理性的であり、当該期の大型環濠集落からうかがわれる人口密度の高さ、異なる職掌をもった人々の共生、、首長権力の再生産機能、そして流通・宗教などのセンタ−機能などを軸に多面的な分野からの問題提起が試みられている。その中でも特に注目されるのが「中心機能・集住・商工業発達・外部依存」の四つを都市の重要な構成要素にあげる都出比呂志の弥生都市批判であり、以上の各要素の分析から、広瀬和雄らが人口1000〜2000人の都市(74)であるとした弥生時代の巨大環濠集落を都市的な要素を萌芽的にもった自給性を基礎とする農民の集住地、「世界の各地に存在する城塞集落の一つのタイプ」として都出が結論づけていたことは、縄文都市_文明論の今後を考える上からも興味深いものがあったということができる(75)。

 しかしながら、列島古代史に占めるそれぞれの意義の重要性にもかかわらず、このような縄文時代と弥生時代の二つの都市論の問で個別的、あるいは統括的な問題をめぐるなにがしかの議論が交わされたという話は、これまでのところほとんど聞かれない。

 特にこうした傾向は縄文都市論に与する考古学研究者の側で顕著であり、三内丸山の文明史的意義を声高に叫ぶかれらの主張が縄文世界の外側にはほとんど発信されないまま、孤立がもたらす束の間の熱狂と安逸とを享受しているかのようにみえることは何とも不可解としかいいようがない。加えて高層の神殿をいわば縦軸に縄文、弥生、古代といった歴史区分の見直しを主張する梅棹忠夫の場合でも、そこにみられたのは木柱痕の巨大さをほとんど唯一の手掛かりとしたき形的な宗教的都市論でしかなく、「中心機能・集住・商工業発達・外部依存」といった四つの要素はおろか、「神殿」や「神官」を支える当該期の経済・社会的な基盤に対する基礎的な視点さえ端から欠如したままであったことはすでに明らかな通りである。

 そして、以上の巨大木柱遺構に比べるとややインパクトには欠けるが、縄文社会の独自の構造や質に対する地道な分析を捨象した安直な遺構性格論が縄文都市−文明論へと直裁化されていたもう一つの例が、巨大木柱遺構の南東側、調査区のほぼ中央部に復元されることになった一列に並ぶ高床式倉庫群の問題である。

 三内丸山の巨大木柱遺構が検出されることになったのは遺跡が立地する台地の縁辺に近い調査区の北西部、北側を流れる沖館川の沖積低地から調査区のほぼ中心部に向かって南北に細長く伸びた通称「縄文谷」の西側部分にあたる。本遺構は前述したように長辺8.4m、短辺4.2mを測る、一間二間の6本の柱列から構成されているが、三内丸山遺跡では、実はこれ以外にも、柱穴が小形であることを除けば巨大木柱遺構に近似する規模と平面規格をもつ6本柱の掘立柱建物遺構、いわゆる方形柱穴列が多数発見されている。

 以上の方形柱穴列群の時間的な分布は巨大木柱遺構の建築時期とされる中期後半期を含めた中期の各時期にわたるが、空間的には縄文谷の谷頭部分に近い調査区はぼ中央部を中心として、調査区の東部、南西部、それに台地縁辺寄りの北西部にそれぞれ群集分布する傾向をみせている。とりわけ調査区の中央部近くから検出された数十棟の掘立柱建物遺構群は長軸方向を東西に向けるような整然とした配列状況を示しており、北側と南側に二つの盛り土遺構、東側に東西に長く伸びる二列の土坑墓群がそれぞれ分布する特徴的な空間的位置とも相侯って、「縄文都市」の経済的な繁栄を象徴する高床式の倉庫群であったとの見方が広く示されている。

 三内丸山の方形柱穴列の多くが規模や平面規格の面で巨大木柱遺構との相似性をみせていただけではなく、調査区の北西部では巨大木柱遺構と場を共有するような空間性を示していたことは、これまでに概観した巨大木柱遺構の性格を改めて考える上からも注目される。現在の復元例のように巨大木柱遺構は台地縁辺近くに孤立した分布をみせていたのか。それとも同時期の方形柱穴列のいくつかが近接分布するような位置関係にあったのか。そのいずれの場合でも、本遺構が三内丸山に占める意義・役割には変わりはなかったのかどうか。しかし、マスメディアなどを通して一方的に与えられる膨大な情報の中には、真に必要なデータ 厳密な検証や追証に堪えうる生きたデータがあまりにも不足していたといわなければならない。

 一方、本遺跡出土の方形柱穴列そのものの性格に関しても、個別的な分析を可能とする詳細なデータが不明瞭な現在、はっきりとした結論を示すことは難しいが、一般論としていえば、以上の遺構群の中に、高床式を含めた縄文時代の倉庫、いわゆる“クラ”が含まれていた蓋然性は決して否定できないものと考える。

 すなわち、前号でも簡単に触れているように、かつて佐々木は1984年の論文において方形柱穴列の分析を試み、それまでに明らかにされていた東北・関東・中部・北陸各地域の資料を平面プランや柱穴の配列、長さなどを手掛かりに都合24類型に分類(図19)した上で、従来、ともすれば全体を俯瞰する総合的な視点を欠き、単に特異な外観から祭祀生や呪術性といった次元にのみ短絡化されがちであった本遺構は、「正確には、機能と系譜を異にするいくつかの遺構群の集合体としてあった」可能性が強いこと。この中には、埋葬儀礼にかかわる祭祀施設以外に、共同の食料倉庫である″クラ″や、東北地方北部から北陸にかけて分布するいわゆる“長方形大形住居址”と相通じる要素をもつものなどが含まれること。クラの可能生が高いとした小形のA型を中心とする1類の中に、弥生時代のいわゆる高倉と形態・規模が近似したありかたを示す例が存在し、さらに以上の柱穴の中に「まるでコンクリー卜を埋め込んだ」(76)かのように根固め用の石が配された例が認められることは、土間構造にとどまらず、高床構造のクラの存在に関してもきわめて示唆的であること。″長方形大形住居址″との近似性は長軸が10mを超えるD型の中でも特に3−b類を中心とした長大な方形柱穴列について想定されること、などを指摘したことがある(77)。

 特に中期後葉の50基という多数の方形柱穴列群が広場中心部に放射状に配列された墓場群と外側の環状にめぐる竪穴住居群の双方に挟まれるように同心円状の分布をみせていた岩手県紫波町西田遺跡例については、この遺跡の報告者であり、当時の性格論にもっとも大きな影響を与えていた佐々木勝の「(もがり)」説(78)、すなわち方形柱穴列を「死者を本葬するに際し、遺体を仮に安置して祭をおこなう霊送りの場所」としてほぼ一律にとらえようとする説を批判し、1西田遺跡で認められた当該遺構と墓坑群との緊密な結びつきは必ずしも他の遺跡では認められず、方形柱穴列の性格をすべてもがり説の枠内でおさえることは困難であること、2西田遺跡で両者の密接な結びつきを示すものとしてあげられた当該遺構と墓場群の軸方位の対応関係は決して厳密なものではなく、むしろ当該遺構の中に広場中心部に長軸方向を向けるものと短軸方向を向けるものの二つのタイプが混在していることは方形柱穴列の性格の多様性に関して暗示的であること、しかも、西田例を含めた当該遺構にみられる形態・規模各面にわたるバラエティーの存在は、「規模の大小にみられる多様性はそのまま祭の規模・披葬者の単位集団内での占める位置に通じる」というもがり説の枠組を大きく超えていること、もがり説の最大の拠りとされた西田遺跡における当該遺構の特徴的な分布は、厳密には墓域に示される内側の非日常的な空間と居住域に示される日常的な空間とをつなぐいわば接点的な位置にあり、その双方に対して扉を開きうる立場にあったこと、この点に関連して、奄美地方やフィリピン北部ルソン島の民俗あるいは民族例では、墓地の内部や墓地の近隣という、まさしく非日常的な特異な空間に食料の貯蔵施設である高倉が群在する場合がしばしば認められること、高倉群にみられるこのような墓地や死霊との強い結びつさの背景には、高倉が死霊や祖霊によって守られるという観念、さらには高倉自体が穀霊を祀るための場であるという観念が存在していたこと(79)、などを根拠に埋葬儀礼と豊饒儀礼の縄文社会における不可分な関係に照明をあて、集落全体の共同貯蔵施設としてのクラの歴史的・社会的性格の三層の明示を試みている(80)。

  三内丸山遺跡の方形柱穴列の多くが佐々木が1a類とした二間×二間の六本柱の構造をとるもっとも一般的なタイプで占められていたことは本遺跡出土の当該遺構とクラとの結びつきに関連してきわめて示唆的な材料であったことはすでに明らかな通りであり、調査区中央部近くにおける方形柱穴列群と墓域の近接した分布のあり方もその可能性を少しも損なうものではなかったというとができるだろう。

 大貫静夫は近年の縄文時代における高床式建物の問題をも視野に入れつつ、「東アジアのあるいはとくに北方高床倉庫について単純に一元論的な系譜論を展開すべきではない」とのべている(81)。

 縄文時代におけるクラの起源や系譜の解明は今後に残された重要な課題であるが、三内丸山遺跡では調査区の東部などで貯蔵穴、すなわち“ヂグラ”の発見も報じられている。このような、クラとヂグラという形態も構造も異なる2つの貯蔵施設がすでに縄文時代段階に登場し、しかもそれらが同一集落内部にあってもしばしば複合的な展開を示していた背景には、縄文時代における食料の長期的・安定的確保とその供給を保証する上で重要な受割をはたす多量の貯蔵食糧、とりわけ根茎類や堅果類などの貯蔵植物の存在があり、またこの点にこそ 季節性に富んだ食料資源に生活を大きく依存していた当該期の経済的・社会的関係の質的な発展の一つの方向性が具体的に示されていたことは佐々木が一貫して主張している通りである(82)。各貯蔵形態の整備とはぼ軌を一にするように前・中期以降、縄文集落の規模の拡大化や定着化・定型化、あるいは集落分布の増大化傾向が中部・関東地方を中心として顕著になることはとりわけこの点において象徴的であり、それは北の三内丸山遺跡においても例外ではなかったとみることができるであろう。

 しかしながら、では、三内丸山遺跡から出土した最大約100棟、同時存在5、6〜10棟ともいわれる方形柱穴列群は、本遺跡の復元案などにみられるようにその大部分が高床式の倉庫によって構成されていたのであろうか。本遺跡の主体を占める2−a類の方形柱穴列群の中には、床構造をとらないもの、倉庫以外の性格をもつ例はほとんど含まれてはいなかったのであろうか。そもそも、もがり説の主舞台である北東北の方形柱穴列をめぐる、180度ともいえる性格論の急激な方向転換を促すことになった理由・根拠とは、はたして何であったのであろうか。 

 すなわち、縄文時代における貯蔵経済、貯蔵型定住社会の重要性に対する認識は、たとえば林謙作の一連の作業やアレン・テスタールの『狩猟採集民における食料貯蔵の意義』の紹介などにもうかがわれるように、近年、その裾野を着実に広げつつあるようにみえる(83)。

 しかし、これまでの学史をふりかえると、縄文時代研究者の多くは当該期をめぐる食料の貯蔵や分配の問題に対して無関心ないし冷淡であり、佐々木のクラとヂグラに関する作業はもちろんのこと、縄文時代の貯蔵穴の問題に先駆的な取り組みをみせることになった市原寿文や和島誠一らの作業(84)も、「いわば幻のテーマとして長い眠り」(85)を強いられていたことは否めない事実である。かつて日本考古学の権威多数が参加した討論で縄文時代における穴貯蔵そのものの存在を真っ向から否定する意見が堂々と主張されていたことは紛れもない学史的事実であり、さらにクラとヂグラの複合的な展開に対しても、方形柱穴列を「貯蔵用の建築物とするには規模が大きすぎる」、縄文時代に「なぜ2種類の貯蔵施設が必要なのであろうか」という、提起された問題の内容を到底理解していたとは思われない如何にも的外れな批判が佐々木に向けられていたことは記憶に新しい(86)。そうした経緯をふまえる限り、今回の、西田遺跡を舞台にした「もがり」説から三内丸山遺跡を舞台にした「高床式倉庫」説への方向転換は、率直にいってきわめて唐突であり、なし崩し的であったという印象を拭うことは難しい。

 ここで改めて三内丸山の方形柱穴列群の性格について触れるならば、本遺跡の当該遺構にクラとの結びつきが想定されるということは、しかし、当該遺構の大部分が高床式の倉庫で占められていたことを決して意味するものではない。本遺跡の全体図などをみる限り、ほぼ同一規模・同一規格を示すといわれる三内丸山の2−a類を中心とする方形柱穴列群の中にも相対的な規模の較差は明らかに存在している。また、小形の例の中には、4本柱・正方形の2a類に近いものも認められる。倉庫、クラとしての性格がもっとも強く考慮されるのは、三内丸山の方形柱穴列群の中でもあくまでも比較的小形の1−a類や2−a類とすべきであり、これ以外のものについては、居住あるいは祭祀などに関連する施設が含まれていた可能性が十二分にあったとみるのが妥当である。三内丸山の方形柱穴列群の多くが高床式の倉庫であったという報告の根拠、いいかえれば「もがり」説から「高床式倉庫」説への方向転換を正当化する明確な論拠は率直にいってまったく不明であり、しかも、本遺跡ではこれらの高床倉庫群が吉野ケ里の弥生時代の倉庫群をも上回る5、6棟から10棟という同時存在数を示していたという説明についても、未だにわれわれはその具体的なデータを与えられてはいないのである。

 三内丸山では、北の縄文王国を支えることになった経済的な基盤との関連で、豊かな水産資源の存在とあわせて、クリやヒエを対象とした栽培の可能性が広く語られている(7)。クリの管理栽培論がほぼ半世紀前の坂詰仲男の仮説(88)の焼き直しであることはいうまでもないが、膨大な都市人口に対するクリの生産力の限界はまったく明らかであり、主食料とされたヒエの栽培に閃しても、本遺跡に対するプラント・オパールや花粉分析作業はこれを疑問視する結果を提出している(89)。「三内丸山遺跡のおびただしい数の柱穴群のほとんどは貯蔵のための倉庫だった」(90)という言葉に代表される「高床式倉庫」説の大合唱が、もしクリやヒエの栽培論と一体となった、縄文都市−文明論を補強するための格好の宣伝材料として十分吟味も加えられないまま提出されていたとすれば、それは本末転倒であけ、かつての方形柱穴列−もがり説に代わる新たな性格的一元論を胚胎させる恐れを有していたことに注意すべきであろう。


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