岡本 孝之


1 歴史を考える三つの方法

 歴史を考える方法としては、大きく分けて三つの方法がある。第一は、いわゆる歴史学の方法である。歴史学は、歴史書などの文献、文字資料の読解によって歴史を構成するものであることから文献史学と限定的に呼ばれることがある。第二に民俗資料を中心に歴史を構成しようとする民俗学の方法がある。これは民具のような物質的資料だけでなく、伝承、芸能などの目にみえないものも対象とする。民族学や文化人類学などと呼ばれる方法も便宜的に分けるならば同じものとしてくくっていい。そして第三は考古学である。発掘という地面を掘り下げる方法によって獲得される様々な遺物、地中に残された土器や石器などの物質的資料によって歴史を組み立てようとする学問である。(1)

 近代までは歴史学の方法だけで、民俗学も考古学も日本にあっては江戸時代にその萌芽を認めることはあっても体系としての成立は近代以後の所産である。この三つの方法は研究の初期にあってはお互いに疎遠であったり、逆に未分化の状態にあった。

 初期の考古学は、坪井正五郎による東京大学における人類学教室の開設、人類学会の組織化に始まるが、土俗学との呼称もあったように、民俗学や人類学的要素が強かった。初期の人類学会雑誌にはそのような学界状況を反映して様々な報告が凝集している。人類学に考古学と民俗(族)学は共通の祖を認めることができる。

 浜田耕作により初めて京都大学に考古学講座が開設されて考古学が自立してくるが、考古学は歴史学の補助学問的な位置しか与えられていなかった。考古学研究者も一部の例外を除いてその安易な体制の中に埋没し、皇国史観の中に考古学もどっぷりとつかっていた。唯一、先史考古学は歴史学の対象とずれていたため、独自の成果が山内清男によって成し遂げられ、ミネルヴァ論争にみられるような理論闘争も展開されたが、考古学の位置を改変、安定せしめるには至らなかった。

 戦後、歴史学では達成できなかった歴史の最も古い部分の具体的な証明を考古学の方法であげることが登呂遺跡の発掘調査に期待された。考古学の調査の結果、弥生文化が稲作農耕文化であって日本文化の基礎をなすことを周知せしめたことのほかに、考古学に広く日本国民の関心を集めたこと、若い考古学研究者を育てたこと、考古学のいわゆる学際的研究をしたことなどが主な成果としてあげられている。学際的研究は考古学が考古学だけでは過去を解明することができないことの自覚である。そして、登呂を契機として日本考古学協会という初めての全国的な考古学研究者の組織が結成されたことを見逃してはならない。戦後考古学体制の成果である。

 

2 考古学は歴史学か人類学か

 考古学は歴史学であるとして、歴史科学として位置づけようとする主張が東京大学の大井晴男(2)によってなされ、横山浩一(3)もいうようにこの見方は今日の考古学界での主流になっている。

 歴史学としての考古学は縄文時代や旧石器時代を歴史の最初期として位置づけるのに成功したが、先史時代を歴史時代に直接接続されたにとどまり、関係性を明らかにはしていない。

 縄文時代の歴史的事象の歴史的意義を解明したいとする山本暉久の主張(4)は、にもかかわらず時間的、地理的変化を確定したにとどまり、歴史学としての再構成には成功していないと思う(5)。思うに先史時代である縄文時代に歴史学が成立するかどうかの検討が必要であり、先史時代とする限り、そこに歴史学は成立しないであろう。

 アメリカでおこったニュー・アーケオロジーは、考古学は人類学に位置づけたが、日本考古学においては歴史学としての考古学が全盛の時代にあってはあまり受け入れられなかった。しかし、近年はコンピューター考古学の普及とともに広がりをみせ、盛んに民族考古学の必要性が述べられ、考古学は人類学でなければならないともされる。(6)

 しかし、発生期において既に考古学は人類学、土俗学としてそれらと密接であったし、民俗学の援用は考古学にとって日常的であった。いま新しく考古学は人類学だと強調する必要性はあまりないのではないだろうか。方法としての人類学、民俗(族)学は考古学にとってはしごく当り前のことではないか。慶応大学における松本信広、国学院大学における大場磐雄の業績のように。

 人類学は今日性において世界への普遍性がある。しかし、歴史学派が批判するように過去に遡る歴史性に弱い。歴史学も世界への普遍性があり、文明史としてまとめられているが、先史の世界への切込みはほとんどできない状態にある。

 考古学はどん欲である。時代、地域のいずれにおいても考古学は成立する。今日以前の人類が足跡を残す限りにおいて考古学は成立する。岩宿考古学、大森考古学、弥生・古墳考古学、奈良・平安考古学、中世考古学、近世考古学、近代・現代考古学が日本において成立し、北海道考古学、東北考古学、関東考古学、中部考古学、近畿考古学、中国・四国考古学、九州考古学、沖縄考古学が成立している。

 文献史学や民族学の成果に学ぶだけでなく、方法においても文化史を中心とした文化考古学だけでなく、産業考古学、政治考古学、軍事考古学、経済考古学、宗教考古学、社会考古学ばかりか、人類をとりまく環境考古学も成立し、あらゆる分野の考古学が成立する。自然科学の方法は開発される度に即刻、考古学の方法として検討され、適用されたのである。考古学ほど周辺科学に対するどん欲さを示すものはないであろう。

 対象とする地域は日本列島にとどまらず、韓国・朝鮮考古学、中国考古学、東アジア考古学、西アジア考古学、アメリカ考古学、アフリカ考古学、太平洋考古学、ヨーロッパ考古学と地球上の全域に及ぶ。南極、あるいは宇宙においても成立しうるであろう。日本考古学の一環として世界に関心をもっていることが重要である。日本考古学は成立の時点で世界考古学であろうとしていたのであり、この性格は途中大東亜戦争の敗北に伴う後退があったとはいうものの今日においても変化せず継続している。(7)

 考古学の対象は、地域を全体としてとらえるとともに、点として全ての地点を対象とする。考古学における遺跡のとらえ方に変化が生じている。従来の遺跡だけを遺跡とするのではなく、環境を含めた全体を考古学の対象とすべき時代が現在である。遺跡は居住の場としての生活遺跡、生産の場としての生産遺跡などとして地域や世界の全体のあり方が考古学の関心となってきた。(8)

 対象とする遺跡なども古い時代の土器や石器だけでなく、モンテリィウスが理解したように鉄道の客車も考古学的な型式変遷をとげており、ミッキィ・マウス(9)もコカ・コーラのビン(10)すらも考古学的な型式変遷が追認でさるのである。あらゆる物質的資料が考古学的関心の対象となるのである。民俗学の対象とする民俗資料は既に多くの研究があるように考古学資料との関連が認められ、連続性、同一視点にもとづく素材である。

 歴史の総体を人類史として考察するとき(11)、人類史の概念を歴史書以後、文字以後の時代に限定できないことは今日では既に常識であろう。歴史を考える学問としてはいわゆる文献史学を中心とした歴史学、民俗学や民族学の一群の学問からなるいわゆる人類学、発掘という方法と物から考察する考古学といった三つの方法があることは既に述べたが、歴史学、人類学が総合科学であり、それぞれの世界を形成しているように考古学もまた総合科学であり、考古学の世界を形成している。

 考古学は、ヨーロッパにおいては対象とする時代において考古学、古代学、先史学などと区別され、固有の展開を辿ってきたが日本においては対象とする時代地域を問わずに考古学の呼称を用いるのが一般的である。歴史書のある時代だけを考古学の方法で呼ぶのではない。歴史書のない先史時代の考古学を先史学として区別することがヨーロッパ考古学においてみられるが、区別しないで考古学の方法で全ての時代を考えようとする視点は重要である。先史学には全く歴史書をもたないゆえの特殊な存在理由があるが、歴史の全般全てを検討の対象にするとき、先史学の独自性を主張することはかえってマイナスになることがあってもプラスにはならないだろう。先史学の体系では歴史の全般をみることはできない。

 このことは文献史学からなるこれまで考古学を補助学としてきたいわゆる歴史学それ自体が、歴史の全体を統一的に見渡す学問として成立していないことを示す。歴史学の方法は歴史書、文字に固有の源泉をもつため、その無い時代、地域においては全く有効性をもちえないでいるのだ。

 歴史と歴史学、歴史書をその対象とする時代範囲を越えて区別することは困難であり、分かりにくい。ここでは言葉の最初の意義にもとづき、いわゆる歴史とは、歴史世界とは歴史書のある歴史学の対象とする世界であり、考古学の対象とするあらゆる人類史を総括する考古世界とは区別されるものとしたい。考古学の対象とする先史時代を含む人類史を考古世界と呼称したい。同様に人類学、民俗(族)学の対象とする世界を人類世界として区別したい。これらの世界は対象とするものはほとんど重複している。

 人類の発生から今日までの時間の流れの総体を一つの一貫した見方でまとめるとしたら、それは考古学の方法以外にないことは自ずから明らかであろう。このことは戦前の歴史学の補助学としての考古学の位置づけはもちろん、戦後の歴史学としての考古学の位置づけをも否定し、考古学としての考古学を樹立すべきことを示しているのである。考古学は考古科学なのである。

 考古学だけが世界への普遍性と歴史と先史までを含めた全人類史をまとめあげることのできる唯一の視点なのである。このことを強調したい。

 考古学を遺物学に限定することはできない。もちろん土器や石器の基礎的研究はどんな時代においても必要であろうし、さらに徹底して推し進められなければならないが、考古学はその基礎の上に総合的な考古学を打ち立てなければならない。考古学は、土器、石器などの遺物に対する細かな型式論などの検討を基礎にしつつ、体系として大きな人類史を構築すべき方法としてあるのだ。総合考古学こそ今構築を求められているのだ。考古科学の成立である。考古世界の確立である。

3 人類史をみる視点

 これまでの叙述された歴史の全ては、歴史を文明の側からみていることは明らかである。今日の全ての歴史状況の反省、洞察から歴史は叙述されてきたとはいうものの、歴史はすべて文明の全体的肯定から進められてきた。佐原真の弥生化を古代化として位置づけ、それを近代化に対応させて評価(12)しようとすることは、まさに文明の全体的肯定以外の何ものでもない。

 戦争の開始期である弥生時代の研究から戦争の否定に向けて運動することは一般的には首肯されても、歴史の最初期において文明に攻められ、支配下に置かれた未開や野蛮の側からはとうてい納得できることではない。攻める弥生人に対して戦争にまきこまれた大森(縄文)人からの視点が佐原には欠落している。だから佐原の主張が現状の境界を全てそのままとして凍結してしまうことにつながる可能性のあることを恐れるのである。日本国憲法における第九条の戦争放棄にしても戦争準備をやめてひたすら経済力を上昇させることが、結果として最も戦争準備として効率的であったことを差し置いて肯定するわけにはいかないだろう。戦争放棄の精神はそれとして正しくても、これまで戦争によって最も被害を受けてきた人々にとってはその納得できる決着を遂げるまでは安易に肯定はできない問題であろう。

 現在は、先行きの明確でない不透明な時代であるともいわれる。環境問題は末期的でもある。政治は混沌としている。経済は明日にも破綻しそうである。先の戦争の賠償責任は、日本国内の問題であるとともに、東アジア全体の問題である。戦争を知らない世代などとのんきなことをいっておられる時代は既に過ぎ去った。戦争の決着がついていないことは、逆説的にいうならばまだ戦争は持続していたのである。佐原の言葉でいうならば戦争は柊わっていないのである。終わらないのである。

 その戦争の始まりはいつか。弥生時代の古代からといぅ問題は置いておくとして、現在の戦争の起源は近代の開始であろう。日本において豊臣秀吉による朝鮮征伐は、近代の征韓論に結びつき、大東亜共栄圏へと発展した。北海道、沖縄の支配へと展開した。

 佐原のいう古代化に対する近代化は、日本列島の明治維新だけにとどめ置くべき問題ではないのである。少なくともそれ以前の近世を前提とし、先の世界大戦を含め現在も含めた時代として理解すべきであろう。杉原荘介の縄文・弥生論における弥生文化と大東亜戦争の対比の問題は重要である(13)。近代の決着はまだついていない。古代化は先史の社会を否定し、文明の社会をつくり、国家を建設した。社会は平等なものから階級社会へと変化した。農業を中心とする生産経済は、私的な財産を産みだし、政治、経済、文化を動かした。文字がつくられ、歴史書が叙述された。

 近代化は、古代化によって始まった農業を否定しようとしている。国家も世界連邦など新しい枠組みへと変化しょうとしている。ナチスによる世界支配の目論見、旧大日本帝国による大東亜共栄圏もまた新しい枠組みつくりの試みであったことに間違いはない。近代化は古代化の否定でもある。 古代化は日本列島においては大森(縄文)社会を否定し、弥生社会を建設した。近代化が古代化の否定であるならば、近代化の最中にある現代の歴史叙述の視点は古代化以前の時代に置くべきである。日本列島においては大森(縄文)時代に歴史の視座を確保すべきである。

 大森(縄文)時代は日本列島におけるその固有さ、日本的特殊性によって評価されるのではなくて、その世界的普遍性の存在としての特性によって位置づけられるべきである。梅原猛の視点は逆転させなければならないのである。国家以前、階級以前、財産以前、生産以前、農業以前、政治以前、文化以前、経済以前、宗教以前、文字以前、歴史書以前といった特性のある世界の先史あるいは無文字社会こそ、新しい歴史をみる定点となるのだ。このような新しい歴史、人類史をみる目は、先史あるいは無文字の社会に置かれ、以後の歴史全体を総括する方法は、最初に述べたように、考古学による方法しかないのである。

 民俗学から日本の歴史の復元をめざした柳田国男の日本史の年代的限界は、考古学でいう弥生時代であった。稲作農耕文化こそ日本文化の基層であるとし、それ以前の文化については研究の初期の一時期を除いて関心を示すことはなかった。弥生時代までの関心をもったことは、文献史学から日本の歴史を復元しようとする皇国史観の視野が古墳時代までしかもっていないことに比べれば確かに新しさ、確実さを備えていたといえるだろう。考古学においては縄文時代の存在が知られているにもかかわらず、その評価を放棄して弥生時代こそ日本文化のあけぼのとする研究者が多かった。後藤守一、八幡一郎、杉原荘介などである。杉原は弥生文化こそ日本史の最初とし、縄文文化の担い手はその協力者として評価する。

 渡辺誠による植物質食料の民俗学的方法による復元的研究(14) は、柳田国男らの限界を突破したものであり、渡辺仁、安斎正人らの狩猟活動のアイヌやマタギ資料による研究(15)も同様の試みである。列島における狩猟活動は、アイヌやマタギだけでなく、神奈川県営ケ瀬遺跡群の調査で明らかのように、広く山村地域では行われていた。

 後藤らの神武東征史観に対しては山内清男が唯一反対論を先史学として展開した (16)が、戦後山内の編年論、縄文文化論が普及し、佐原に代表される考古学からの歴史がまとめられる。佐原は日本史の基層として縄文・岩宿(旧石器)時代を位置づけなければならないとする。

 梅原は縄文文化を日本史の基層としてその重要性を強調する (17)が、縄文と弥生の対立性についてはあまり触れない。スーパー歌舞伎「ヤマトタケル」において市川段四郎扮する相模の国造ヤイラムをして次のように台詞を与えている。「おまえたちのほうがはるかに野蛮だ。おまえたちがもってきたのは、鉄と米、われわれが自由にさまよっていた土地を仕切って米をつくる。われわれが狩りに出たスキに、おまえたちは土地を占領し、何にして、米とやらをつくる。それをとりかえそうとすると、われらを鉄の武器でおいはらう。おまえたちの宝は米と鉄だけだ。しかし、われわれはちがう、人間の心の中に宝があることをわれわれはずっと前から信じてきた。今でもわれらの中には、そういう信仰がある。それをおまえたちは、鉄と米で人間の心の中にある美しい宝を滅ばしてしまったのだ。」(18)

 しかしこれには佐原が批判するように(19)正しくない時代把握があった。佐原にしても戦争論を展開しつつも弥生文化の対縄文文化戦争についてはほとんど触れることがない。戦前の時代認識とは一定の進歩が認められるにもかかわらず、山内がもっていたような緊張感に欠けるのである。佐原の指摘する古代化としての弥生化は優れて世界史的変遷を指摘しているのであるが、時代変化についての緊張感に欠け一面的である。

 角田文衛の古代学(20) は、その構想にもかかわらず、あるいはその構想の故か、成立はしない。先史と歴史を一貫した視野で構想することは良いとしても、その問にある歴史的逆転について何も発言しないからである。この点は梅原猛の古代史理解と近いかもしれない。

 緊張感の欠落は逆に作用して先史世界の蔑視へと向かう場合がある。岡本勇の縄文時代論「原始社会の生産と呪術」(21) はそのような姿勢で貫かれている。奥田土志が繰り返して批判するように、「文明的世界観 (人間中心主義的な自然観、生産性至上主義的な価値観) の立場から野性的世界観を誹誘中傷する。」(22)

 岡本勇の「縄文時代の社会は、階級以前の社会である。(略)そこでは人間対人間の矛盾よりも、人間と自然とのあいだの矛盾のほうがつねに主要なものであった」という見解の誤りは、稲作こそ自然の生態系の単一化という自然破壊の元凶であることを指摘すれば十分であろう。弥生時代以降こそが人間と自然との対立が始まるのであり、だからこそ人間対人問の矛盾が激化したのである。

 自然は克服すべきものではなく、「人間と自然との調和、人間の自然への適応」 こそ、先史世界の生き方であった。それは正しく現代の課題でもあるからゆえに現代の先史世界の研究が意義あるものとして位置づけられるのである。

 新しい日本の通史をめざした網野善彦の主張は(23)、その新しい日本認識にもかかわらず、先史の世界に対する圧倒的な構成不足という現実の前では空虚な響きしか持ち得ない。全20巻のほとんどが歴史世界の叙述にあてられ、先史世界についてはただの1巻、それもその一部しか与えられていないというのでは、「日本の旧石器時代」「弥生時代の日本人」「雄略天皇」「継体天皇」ということばを歴史家が不用意に使うことを戒めたにもかかわらず、すぐ直後の論文にそれらが現れても文句もいえないであろう。先史世界を復元し、正当な人類史を示すためには、経過した同じ時間枠と比例同量の執筆量があってしかるべきであろう。

 先史世界に現代社会の考え方を一方的に押しつけて理解することは誤りであり、先史世界を理解するためには現代の人々にとってある飛躍を必要とする。

 先史世界と歴史世界の狭間は、研究の進展とともに日本列島においても次第に狭められているといえよう。すなわち先にも述べたように文献史学の時代においては縄文時代の認識はあってもその関連についてはほとんど触れられず、評価されず歴史の遡源は古墳時代までであったのが、弥生時代が発見、評価されて縄文対弥生が問題になり、さらに九州・西日本における三万田文化、東北・北海道における大森(縄文)時代続期やいわゆる弥生時代早期の位置づけをめぐって先史世界と歴史世界の狭間はいよいよ狭まり、先史世界と歴史世界の闘争はあいまいな境界部分を残すことなく対立的風貌を現しつつある(24)。緊張は高まりつつある。

 

4 考古学は考古学

 考古学は、全人類史を一つの視点で総括できる唯一の方法である。したがって考古学の補助学としての歴史学が位置づけられる。考古資料の評価の過程で民族学、人類学の援用が必要であったと同じように歴史学の援用が必要である。考古学の主体性が問われる。

 先史世界を人類史の総括の起点にとらえることが重要である。

 先史世界と歴史世界の逆転現象が古代化であり、歴史世界の否定こそ近代化であり、多くの失敗を引き起こしつつまだ決着せず混乱の現状を示している。否定の否定がどのような世界を創出するのか全く想像もできない状況にある今日、先史世界を起点に全人類史、考古世界をまとめることが必要と思われる。1993年は国際先住民年として世界各地で様々な集会が活発に展開され、日本においても先住民としてのアイヌが理解されようとしている。先住民の現状維持だけでなく、彼らの視点からの今日の批判が必要であり、時間軸では先史からの批判が歴史世界に対して行われなければならないのである。批判は根底的でなければならない。これは日本列島の内部史としても批判されるが、列島を越えた東アジア史、世界史としても貫徹されなければならない。

 近代史理解において、日本一国史としてだけの日本史では中途半端であり、好むと好まざるにかかわらず東アジア史あるいは世界史としての日本史しか日本史理解は完結しないように、日本の考古学は既に世界の考古学と一体である。

 それはひたすら日本のため、あるいはヨーロッパ諸国の考古学と一体化するため、日本語だけでなくヨーロッパ諸国語によって表現されてきた。これからは現地の言語によって考古学の成果も表現されるべきであろう。 考古学は、歴史学であるとか、人類学であるとかをはるかに突き抜けて独立する考古科学、総合考古学でなければならないのである。

 そして考古学ほど簡単に歴史や人類史を実感せしめる方法はないであろう。発掘は自らの体験によってまさしく歴史や人類史を掘り起こす仕事であり、条件の違いはあっても大人や子供を問わず比較的簡易に体験できる方法である。文字資料、古文書を発見すること、古い民俗資料を捜し出すことにはそれなりの準備、勉学が必要であり、広く一般が触れるということはできないであろうから、考古学のこの性質はもっと展開、開放させたほうがよい。100人に1人の考古学ではなく、99人の考古学どころか(25)、100人のための考古学が存在しうる基盤がある。実際、青少年時代に考古学にふれたことのある人は多い。そのまま考古学の世界に残った人は少ないが、成人して他の分野に進みながらも考古学に関心を持続する人は多い。それらの人のネットワークによって今日の考古学が存在しているともいえる状況にある。博物館における物から見る展示は、多くの人を引きつけ、容易に歴史や人類史を理解させる。考古学資料の特性はもっと活かしたい。     (1994・3・31)

 


(1)鈴木公雄『考古学入門』1988年

(2)大井晴男『野外考古学』1966年

(3)横山浩一「総論−日本考古学の特質」『岩波講座日本考古学1 研究の方法』1985年

(4)山本久暉「敷石住居出現のもつ意味」『古代文化』第28巻第2・3号1976年 同「縄文時代終末期の集落」『神奈川考古』第25号1989年

(5)岡本孝之「弥生時代の利根川流域」『利根川』第15号1994年

(6)安斎正人『無文字社会の考古学』1990年「考古学の革新−社会生態学派宣言1」『考古学雑誌』第78巻第4号1993年

(7)岡本孝之「日本=東亜(朝鮮)考古学批判(1)〜(3)」『異貌』第3・4・6号1975〜77年

(8)岡本孝之「湘南の考古世界−藤沢市の遺跡はひとつ−」『藤沢市史研究』第27号1994年

(9)鈴木公雄「型式・様式」『縄文土器大成第4巻晩期』1981年

(10)望月 芳「コカコーラと私」『窓』81号1993年 藤沢市職員福利厚生会

(11)西田正規「人類史の可能性」『筑波大学史学・考古学研究』第4号1993年

(12)佐原 真「大系日本の歴史1 日本人の誕生」1987年

(13)杉原荘介『原史学序論』1943年

(14)渡辺 誠『縄文時代の植物食』1975年

(15)渡辺 仁「土俗考古学の勧め−考古学者の戦略的手段として−」『古代文化』第45巻第11号1993年 安斎正人・佐藤宏之「マタギの土俗考古学」『古代文化』第45巻第11号1993年

(16)山内清男『日本遠古之文化』再版1939年

(17)梅原 猛『日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る』1983年

(18)梅原 猛『ヤマトタケル』1986年 131頁

(19)佐原前掲(12) 334頁

(20)角田文衛『古代学序説』、『古代学の方法 角田文衛著作集1』1986年、『転換期の考古学』1993年

(21)岡本 勇「原始社会の生産と呪術」 『岩波講座日本歴史1 原始及び古代』1975年

(22)奥田俊夫「縄文人と自然」『異貌』第9号1981年、奥田土志「縄文人と自然」『すみしず』第8号1993年 天理教青年会隅静分会

(23)網野善彦「日本列島とその周辺−「日本論」の現在」『岩波講座日本通史第1巻 日本列島と人類社会』1993年

(24)岡本孝之 「東日本先史時代末期の評価 (1)〜(5)」『考古学ジャーナル』第97〜99・101・102号1974年、「縄文土器の範囲」『古代文化』第42巻第5号1990年、「杉原荘介と山内清男の相克」『神奈川考古』第27号1991年
(25)佐原 真『NHK人間大学 日本文化を掘る』1992年

 

(追記)本稿は、3月に完成していたものであり、1年近くの間を経ているが、2、3の訂正以外はそのままとした。その代わり追記をしておきたいことがある。

 角田古代学については、さらに検討すべきと考えているが、角田の『転換期の考古学』を巡って穴沢啝光と角田との間で興味深い議論があった。そこで確認されたことは角田古代学は古代学にとどまり、私のいう考古学の一部でしかないことである。

 秋の同志社大学における考古学協会は、盛り上がりに欠けたが、それは網野善彦の依頼講演に典型的に示されている。「中世史から考古学への提言」を聞く段階ではなく、考古学は中世史に何を求めているのか、批判するのかを明らかにすべき時が現在であるという自覚に欠けている。

穴沢啝光「書評 角田文衛著『転換期の考古学』」『古代文化』46−4 1994年

角田文衛「穴沢博士の『転換期の考古学』評について」『古代文化』46−10 1994年

網野善彦「中世史から考古学への提言」『日本考古学協会1994年度大会研究発表要旨』1994年


 なお、原典に記載されていました図版3枚は都合により省略しました。

 


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