本書は、九章と項目立てで、第一・二章が旧石器時代、第三章以降が縄文時代の時代区分となっている。

 特に第一章の前・中期の旧石器時代は、昨年の「神の手事件」で一躍脚光を浴び、今年の夏に改訂版が出版されるとの事であり、どう改訂していくのか注目したいところである。

 さて、岡村氏が冒頭に記載しているように、本書は『…縄文時代の人びとの生活の様子を物語りとして再現した…』縄文物語を基調とした構成となっている。

 この試みは成功しているのだろうか。残念なことに、その実態は空想的な物語と実証的な事実の繰り返しであり、この繰り返しがもたらす効果には、空想の物語世界を現実的な世界へと引きずり込もうとするトリック性が潜んでおり、一般読者が空想と現実を区分けできず、物語を史実化してしまう恐れがあると思われる。

 なお、本書は360ページという大著であるため、三内丸山遺跡と三内丸山遺跡と中国との交流について主に記載することとしたい。

 岡村氏は三内丸山遺跡の際立った特色として、本書の126ページで6点をあげているが、これらの特色は普通の縄文遺跡にもみられるものであり、声高にあげる特徴とはいいがたい。他の遺跡でも面的な調査が実施されているならば、同様な結果が表れるのではないだろうか。

 また、岡村氏は本書122ページにおいて、三内丸山遺跡で500人が一時期存在していたという500人説をとっている。しかし、500人説の根拠と説明が明確ではなく、あまりにもファジーな発言である。

 本書90ページでは、中国と三内丸山遺跡との交流を記載している。だが朝鮮半島・日本海を飛び越えてダイレクトに交流していたのだろうか。

 また、土器も共通性がみられるというが、実見した評者にいわせると、円筒土器と興隆窪遺跡の土器を同一テーブルの上に乗せ、10m離れたところから近眼の考古学者が土器をみた場合、似ていると言うかもしれない程度のものである。

 確かに岡村氏が指摘するように土器のプロポーションは似ているが、煮炊きの土器は汎世界的にプロポーションに類似性があるのであって、文様施文・文様要素は明らかに違うものであり、似て非なるものと感じたが、いかがなものであろうか。

 今年おこなわれる中国の調査において、第二の神の手事件やバヌアツ島縄文土器事件が起こる事なく、国際問題にならないことを祈るばかりである。

 最後に、本書の同封の小冊子(月報)で、佐原真氏が故山内清男氏の業績を取り上げて紹介していることに触れたい。

 このことは、「日本考古学の秩序」を唱えた山内先生の縄文研究者としての再評価をし、いまや無秩序・無規則に陥っている一部縄文研究者に対する、考古学の原点に戻るべきという佐原氏の警鐘ではないかと、筆者は小冊子を読んで思った次第である。

 とにもかくにも、国の埋文行政のトップに位置する文化庁の職員であるからこそ、影響の大きさを肝に銘ずるべきではなかろうか。

 安易に肯定的な意見ばかりを記載したり、学術的検討が十分に行われていない遺跡をとりあげることは、それらが国家からの公認をもらったという印象を多くの人に与えると思うのである。

 本人は深く考えていないだろうが、自らの行動と文章には責任をもってほしいものである。

 (日本考古学協会員)


 成田滋彦さんは、青森市三内丸山遺跡の発掘調査が盛んに行われていた当時の遺跡発掘チームの担当責任者でした。したがって、「ミスター三内丸山」とマスコミで称される岡田康博さんと同じくらい三内丸山遺跡については、詳しい方です。同じ遺跡を語るにしても、岡田さんや岡村道雄さんとはまた違った見方をされているのが興味深いところです。今回は本人の「本名を明記してくれ」という、たっての希望がありましたので、ここに公表しています。それだけに一層、本人の書評にかける責任感の強さがこちらにも伝わってきます。
 本書評をお読みになった感想などございましたら、掲示板に書き込みをお願いいたします。(2001/10/18再掲)


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