作品解説2

「衣」シリーズ 写真NO.84

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 「冬の街」と題された昭和31年1月に弘前市「角はデパート」前で撮影された写真である。
 左端の建物に「映」というネオンサインが見える。これは、恐らく百石町にあった映画館「東映」の看板であろう。「角は」前から北側の百石町の通りの風景が克明に記録されている。

 真ん中の老年の男性は、タオルで独特の「ほっかぶり」をし、鳥打帽をかぶっている。右側の女性は、角巻を体に巻いている。背中の膨らみは、背負った荷物か。
 通りを横断するように、「アサヒビール」のネオンサインが見えている。その突端には、「ニューヒロサキ(→付き)」の看板がかろうじて見える。この「ニューヒロサキ」、実はここのマッチラベルの画像があるのだが、「レストラン/喫茶バー/弘前百石町」としか記載が無く、どの辺にあったのか、これでようやく判明した。

 「ソフラン」の看板は、東洋ゴムの「夢のマットレス」の商標のようである。普段使う敷き布団の中身が綿だった頃、ようやく化学素材のマットレスが売り出された時代なのであろう。

 「旧正福引・・・」などの広告も見える。旧正月にあわせた大売り出しが行われていたのだろう。旧暦が話題にのぼることも無くなって久しい。
 大伸ばしで写真を眺めていると、色んなことが分かってくるが、逆にこちらが試されているようでもある。

「住」シリーズ 写真NO.121

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「アパートの暖房」と題され、昭和31年2月に弘前市若党町にあった市営アパートのベランダ側を撮影した写真である。

 この写真の前のページには、炭の出荷の風景があり、「炭を出荷する風景はほとんど見られなくなった、昭和29年に弘前の市営アパートに入ったとき、暖房のことが何も考えられていないのに驚いた。煙突の為に穴をあける許可をもらったが、向いの家のベランダに炭俵が積んであったのを見てCO中毒にならないかと心配した。」とコメントが添えられている。これからすると、この写真は佐々木先生御一家が入居していた部屋から撮ったものであろうか。

 まさしく、2階のベランダには炭俵がうずたかく積まれている。壁には煙突の穴らしきものは見えない。佐々木先生のコメントにあるように、木炭が唯一の暖房源だったのであろう。この頃の私の記憶では、農家だった我が家はコタツに練炭が1個で、一日中それしか無かった。厚着をしていたので、なんとか寒さをしのげたのだと思う。人間の体は、練炭1個でも生きて行けるようにできているのだと思うが、それなりに無理はかかっているのだろう。ご飯は、「かまど」で親戚の製材所から安く分けてもらった廃材を燃やして炊いた。熱源としては、これが一番暖かかった。

 1階にはワラで編んだ雪囲いが見える。一部に、前庭に出られるように出入り口のようなものが見える。この頃は、冬用の野菜は土を掘り上げたムロ様の中に保存しておき、必要なときに穴から野菜を掘り出してきて使っていた。そのようなことも、この写真からは読み取ることもできる。

 また、真ん中の部屋の2階のベランダには、丹前下などの洗濯物が干されている。2月という厳冬期に屋外に洗濯物を干していたのである。わずかな日当りを求めて、急いで外に出したのであろうか?パジャマなどという洒落たものはまだ、一般的で無い時代、首元まで丹前を引っ張り上げて、寒い寝室で寝たのである。この市営アパートはモルタル壁なので比較的断熱性は高かったと思うが、私の実家は土壁、その上、隙間だらけの窓で外気温とほとんど変わらず、朝方には自分のはいた息で丹前の端が凍っていたのを今でも思い出す。

「祭」シリーズ 写真NO.201

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 「昔ながらのかき氷」と題された写真である。撮影日は記されていない。写真集に収録されている写真のほとんどが昭和30年代前半のものであるので、そのように考えてよいと思われる。場所も記されていないが、弘前市久渡寺の写真の項に挿入されているので、これと関連したものと考えられる。但し、かき氷を食べているので、季節は夏と思われる。

 カンナをひっくり返したような台の上で、お婆さんが右手に氷の固まりを持ち、前後に氷を滑らせ、刃によって削りとられたかき氷を、左手に持った容器入れているところである。現存するかき氷の機械を観察すると、かき氷を受け取る容器は左側からしか入れれないようになっているので、左利きの人には不向きな作りとなっている。
 画面右側にある大きなガラス容器は、タライに入れられているので、おそらくはかき氷のシロップを入れるものと思われる。使用した氷は、溶けないように別の場所に保管してたのであろうか。


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佐々木直亮 ささきなおすけ sasaki naosuke

 今から30年前、弘前に住むようになって、東京生れの私にとっては何もかもがめずらしく、撮り続けた写真集が、衛生学教室のアルバムになった。
 昭和59年7月に、第49回日本民族衛生学会総会が弘前で開催されることになった記念に、その中の何枚かを“人々と生活と”というテーマで選んでみた。
 ここに写された生活はもうほとんどみられない。青森県の津軽・南部の、又一部秋田県での人々の生活の記録は、それなりに意味があるものだと思う。人々はそれぞれの土地に生活し、その様子は無限にあり、そのほんの一部をのぞきみたにすぎないものだと思う。
 しかし衛生学者としての私は、そのシイーンに何かを意識しシャッターをおしたので、一枚一枚にそれなりの意味があり、記憶に残るものがある。
 東北地方には“あだる,といわれていた病気があった。その謎ときに30年を過してきたのだが、その研究にとりかかった当時は、その原因として“労働”が考えられていた。
 東北地方の人々の生活、とくに労働については全く知らなかった私は、まず労働を知らなければならないと思った。そのために週に一回、自転車にのって学校の近くの田畑にかよって、一年を通して農家の人々の労働をみにゆき、写真を撮り続けていった。

「人々と生活と」巻頭言より