与助尾根集落論―もう一つの「不都合な真実」
  
               
佐々木藤雄

今回紹介する佐々木藤雄さんの論文は、2007年5月に刊行された「異貌」第25号(共同体研究会)に掲載されたものです。
 今回は元になるテキストデータを佐々木さんより提供していただき、案内人がそれをWEBに載るように最小限度の手を加えました(例:ローマ数字などの機種依存文字の変換)。本来は縦書きのため年号などは漢数字が使用されていました。今回は誤変換を避けるため、あえてそのままとしましたので、ご了承下さい。
 最後になりましたが、データの提供と公開のご承諾をいただきました佐々木藤雄さんにこの場をお借りして、厚くお礼申し上げます。(2007年8月)



 「茅野市にある国の特別史跡尖石遺跡は、縄文集落研究の発祥の地として、日本考古学史の上に永遠に記念されるべき重要な遺跡である。ここでは昭和5年(1930)から同18年まで、地域研究者として育った宮坂英弌が、教職のかたわら、自らの財産をなげうって、営々と独力で発掘を続け、53ヶ所の炉址、33ケ所の住居址を発見し、縄文時代のムラのほぼ全容を、全国ではじめて明らかにするという偉大な業績を残した。太平洋戦争後も宮坂は縄文集落の研究に精魂をうちこみ、尖石遺跡に隣接する茅野市与助尾根遺跡で、総計28ケ所の住居址を発掘し、ついに一単位の縄文集落の全掘に成功したのである。」

 「こうした一つの集落の住居群の構成を、その集落の住民の社会構成としてとらえようとした最初の研究は、1969年に水野正好によって、茅野市与助尾根遺跡の資料にもとづいて試みられている。与助尾根遺跡は、縄文集落研究史の上で学史的に著名な、茅野市尖石遺跡に隣り合う台地(与助尾根)上に立地する。小さな谷をへだてて尖石遺跡と向かい合う台地の南側の縁にそって、合計28軒の住居址が発掘され、宮坂英弌の数年間にわたる探査の結果、それが与助尾根遺跡に存在する全住居数であることが明らかにされている。つまり馬蹄形ないし環状集落である俎原遺跡や、隣の尖石遺跡などとは形態が異なる、帯状分布の住居群をもつ縄文中期の集落が全掘されたということになる。1946年から1952年にかけての敗戦直後の考古学的調査として、弥生時代の静岡県登呂遺跡、先土器時代の群馬県岩宿遺跡に並ぶ刮目すべき成果として、宮坂一家の努力とともに記憶されなければならないだろう。」
(戸沢充則『長野県史』一九八八)(1)   

         


 中央に広場をもつ定型的・定着的集落の最初の発見例であり、宮坂英弌によるドラマティックな発掘調査(2)と和島誠一の学史的な集落研究(3)でも知られる長野県茅野市尖石遺跡では、近年、継続的に行われた史跡整備のための試掘調査により、これまで未調査であった区域からの遺構の発見が相次いでいる(4)。確認された遺構の内訳は竪穴住居址、性格不明の小竪穴、土坑、柱穴群など多数であり、その結果、中期後半期を主体とする本遺跡の集落像をめぐって新たに次のような知見が加わりつつあることが注目される(図1)。

図1

 (1)尖石遺跡から新たに発見された80軒を超える竪穴住居址は宮坂が「住居地区」として位置づけた遺跡の北・南・西の三方面に馬蹄形状に広がる住居群のさらに西側と北側に密集分布していること。
 (2)尖石集落を構成する住居群の所属時期は中期の各段階にまたがっており、中期後半期以前でも中葉段階に住居群の安定的な分布が認められること。
 (3)小竪穴群や列石群、それに正位に埋設された「一大独立土器」などの出土から宮坂が「特別遺構の地区」、「社会的地区」として位置づけ、後に和島が「竪穴聚落の集団生活の結集点」である「中央の広場」としてとらえることになった地点からは、宮坂調査の列石群とともに新たな土坑群や柱穴群が発見され、本地点が集落中央広場であった可能性が改めて裏付けられたこと。
 (4)中央広場発見の土坑群の中には、墓壙や貯蔵穴などの用途をもつものが多数含まれていること。
 (5)同じく中央広場発見の土坑群には柱痕を有するものが多数存在しており、これらの中に掘立柱建物(方形柱穴列)が含まれていた可能性が想定されること。
 (6)本集落の中央広場は、従来、集落の東寄りに偏在する特異なあり方をみせていたが、今回、遺跡の東側でも住居の分布が確認されたことから、尖石集落の「中央の広場」は文字通り集落の中央部に位置する可能性が強まったこと。
 (7)前述の問題とも関連するが、かつて尖石集落の分村などの可能性が指摘された与助尾根南遺跡(5)の住居群は、本集落の北東部分を構成していた可能性も否定できないこと、などである。

 得られた情報は断片的であり、現状では推測の域を出るものではないが、以上の諸点からうかびあがってくるのは環状集落、それも中央広場の墓壙群を中心に掘立柱建物群や竪穴住居群が囲繞する「重環状構造の集落」(6)としての尖石遺跡の姿であり、特に広場の一角に分布する列石群については、長野県大桑村大野遺跡(7)や神奈川県相模原市(旧城山町)川尻中村遺跡(8)などの中期中葉末〜後半の環状集落で確認されている「集落内環状列石」(9)のあり方ともかかわる重要な問題を内包していたことが注意される(10)。

 


 一方、調査者である宮坂英弌自身(11)と、かれの成果をふまえた水野正好(12)の二人の先駆的な与助尾根集落論で著名な与助尾根遺跡でも、一九九八年に行われた史跡整備に先行する試掘調査によって新たな遺構の分布が明らかになっている(13)。確認された遺構の内訳は竪穴住居址、小竪穴、土坑、柱穴群など82基であり、本遺跡の集落像についても同じく次のような知見が加わりつつあることが指摘される(図1・2)。

図2

 (1)今回の調査で新たに発見された遺構のうち、住居の可能性が考えられるものは11軒の多数にのぼり、宮坂調査分を合わせた与助尾根集落の総住居数は一挙に39軒まで増加すること。
 (2)宮坂が調査した住居の中には、実際の位置とズレのあるものが少なからず認められること。
 (3)新たに発見された住居のうち、所属時期を確認できるものは中期後葉曽利II〜IV期のいずれかに位置づけられること。
 (4)新たに発見された住居のうち、7軒は宮坂が調査した28軒の住居群と近接あるいは重複するように分布するのに対し、残る4軒は28軒の住居群の北側に分布していること。
 (5)その場合でも、宮坂調査の26号住居は住居群の東端、3、4号住居は住居群の西端を占めていた可能性が改めて考えられること。
 (6)以上の結果を総合すると、従来、東西に細長い台地に沿って弧状に広がると考えられていた与助尾根集落は、略環状、ないし北東に開く馬蹄形状を呈していた可能性が強く、重環状構造の集落としての尖石集落との関係については新たな視点からの再検討が必要であること、などである。

 得られた情報は同じく限定的であり、尖石遺跡で確認されたような掘立柱建物(方形柱穴列)の分布も不明であるが、従来、28軒の住居群からなる不定型な小集落としてとらえられてきた与助尾根集落像に対する全面的な見直しが迫られていたことは確かであろう。


  

 ところで、以上の調査結果を受けて改めて注目したいのが、「二棟一家族論」あるいは「三家族(二棟一家族)三祭式(石柱・石棒・土偶)分掌論」として知られる水野正好の与助尾根集落分析作業の蓋然性である。

 すなわち、東西に弧状に分布する与助尾根集落を中期後半期の所産とみる水野は、まず最初に集落を構成する28軒の住居を、その切り合いや炉石の有無などを基準に前・後期の二つの時期に分割する。次に、住居群の空間的な配置をもとに与助尾根集落を東・西二つの大群に分割した水野は、特に12軒の住居群から構成される後期例を手がかりとして6軒の住居からなる各大群をさらに2軒単位の小群三つに群別し、集落全体(二大群12軒)―大群(三小群6軒)―小群(2軒一単位)という集落分割案を描く。その上で水野は、集落―大群―小群という先の群別構成と部族―家族―(単婚?)小家族(もしくは性別ないし機能集団)というレベルを異にする社会集団の構成とを重ね合わせるとともに、本遺跡のいくつかの住居から発見された特殊な付属施設のあり方をもとに石柱、石棒、土偶という形態を異にする基本的に三つの祭式が各小群に分掌されるという独自の仮説を提出する(図3上段)。

図3

 以上が縄文時代集落論にかつてない衝撃を与えることになった水野の与助尾根集落論の概要(14)であり、一九六九年の論文(15)では2軒を一単位とする小群の性格を家長夫妻・兄弟・子女からなる家族として位置づけ、2軒のうちの一方に家長夫妻と幼児、他方に家長と出自を同じくする男子や子供が居住していたという独自の住み分け論を展開することによって「二棟一家族論」の一層の整理を試みている(16)。

 しかし、水野の以上のような図式的な与助尾根集落論が抱える矛盾、危うさについては、これまでにも塚田光(17)や後藤数民(18)、ふれいく同人(19)、それに佐々木(20)などによる批判がある。水野が時期区分の根拠として取り上げることになった炉縁石の有無は必ずしも住居の動きとは一致しないこと、調査者の宮坂が埋甕炉や住居形態から中期初頭の可能性があるとしていた西群の二号住居のあり方がまったく考慮されていないこと、二号住居と北東の一号住居との切り合い関係が宮坂の報告とは正反対にとらえられていること、などがその内容であり、東群の六号住居に出土事実のない土偶の分布が想定されていたことにも大きな疑問が寄せられている。

 とりわけ多くの批判が集中していたのが、水野の土器型式によらない集落分析と土器型式にもとづく集落分析との間にみられる大きな時間のズレである。すなわち、報告書に掲載された不十分な土器資料をふまえるだけでも、水野が二時期、宮坂が三時期に分割した与助尾根集落は、実際には中期初頭を含めた少なくとも四つの時期に区分することが可能なのであり、このことは報告書未掲載土器資料を含めた本集落の見直し作業が行われた一九八六年の『茅野市史』(21)でも再確認されている。

 佐々木の一九八一年の作業(22)を例にとれば、
 中期初頭=二号
 曽利II期=一・五・六・七・八・一一・一四・一六・一七号、
 曽利III期=一二・一五号
 曽利IV期=三・四号
 時期不明=九・一〇・一三・一八〜二八号
というのが以上のおおよその内訳であり、時期不明のものを除けば、与助尾根前期に一括された一六軒の住居中、五軒は曽利II期、一軒は曽利IV期に、同じく与助尾根後期に一括された一二軒の住居中、一軒は中期初頭、三軒は曽利II期、二軒は曽利III期、そして一軒は曽利IV期に細分される(図3下段)。

 分析の詳細については旧稿に譲るが、一体、どのような詭弁を弄すれば、数十年、時には数百年という時間幅をもつ住居群を同時存在例とみなすことができるのであろうか。想念の集落論と呼ばれる水野集落論の恣意性と主観性が、ここにはもっとも集約的な形で表出されていたといっても過言ではない。
 
 今回の試掘調査の結果は、いうまでもなく水野のこうした虚構の集落論の論理・資料両面にわたる全面的な破綻を決定づけるものであり、今後、かれの「二棟一家族論」と「三家族(二棟一家族)三祭式(石柱・石棒・土偶)分掌論」が学史的な検証作業の中でのみ生を享受しうることを物語るものであったといえるだろう。

 


 しかし、今回の調査結果をふまえた上でもっとも注目したいのは、与助尾根遺跡は「日本における最初の原始集落の全掘例」であるという「定説―神話」が根底から崩れ去ったという事実である。

 冒頭でも引用したように、戸沢充則は一九八八年の『長野県史』において「太平洋戦争後も宮坂は縄文集落の研究に精魂をうちこみ、尖石遺跡に隣接する茅野市与助尾根遺跡で、総計28ケ所の住居址を発掘し、ついに一単位の縄文集落の全掘に成功した」とのべている(23)。

 また、勅使河原彰も一九八六年の『茅野市史』の中で「宮坂氏は尖石遺跡では果たせなかった集落の全掘の夢を、この与助尾根遺跡に託して、その全面発掘を計画した。(中略)昭和二十四年をピークとして昭和二十七年の調査終了時までに、各地の高校生の多数の参加によって総計二八ヵ所の住居址が発掘された。これは与助尾根遺跡に残された住居址のほとんどすべてに当たるものであって、規模こそは尖石などの大集落には及ばないながら、日本における最初の原始集落の全掘例として、日本考古学史に残る重要な成果をもたらせた。この与助尾根遺跡の発掘の成果は尖石遺跡のそれとともに、昭和三十二年に『尖石』と題して報告された。この日本における最初の原始集落全掘の報告書が学界に与えた影響は大きく、特に昭和三十八年に水野正好氏が宮坂氏の分析に依拠しつつ、さらに発展させて、与助尾根集落が、二棟を一単位とする三小群が東西に二つの大群をなしているという構成を考え、各大群にはそれぞれ石柱祭式・土偶祭式・石棒祭式という三祭式を分掌しているという、集落構成と祭祀構造との統一的な理解に基づく復原案を提示し、以後の縄文集落研究に大きな影響を与えることになった」と書いている(24)。

 「ほとんどすべて」の住居が発掘されたことを「全掘」すなわち「全面発掘」と形容する勅使河原論の奇妙さはさておき、今回の試掘調査で新たに確認された住居は、前述したように11軒の多数にのぼる。与助尾根遺跡から最初に発見された28軒の住居群のほぼ4割にあたる数字であり、しかも試掘調査の報告者は、「その全貌を掴めないまま調査を終了したのは残念であった」(25)という言葉に明らかなように、今回の調査がなお多くの制約を伴っていたことをはっきりと認めている。両者を合算した39軒を与助尾根集落に残された全住居数であると仮定した場合でも、3割近い住居が未発見に終わった宮坂の調査を「全面発掘」とも「ほとんどすべて」の発掘ともいえないことは論をまたない。過去、半世紀にわたって与助尾根遺跡に与えられてきた「日本における最初の原始集落の全掘例」という称号は幻であり、早急に撤回されなければなるまい。

 然るに勅使河原は、二〇〇四年の『原始集落を掘る・尖石遺跡』の中でもわざわざ「縄文集落の全掘」という項目を設け、改めて与助尾根遺跡を「日本における最初の全面発掘例」として紹介している(26)。本遺跡における史跡整備に先行する試掘調査の六年後のことであり、しかも同書の後半部分では「与助尾根遺跡は、試掘調査の結果、新たに住居址一一ヵ所が追加され、合計三九ヵ所の住居址が確認されている」とさえのべている。にもかかわらず、一体、どのような論理―屁理屈を用いれば、詐術的ともいえるこのような言葉の使い分けが可能になるのであろうか。宮坂とは水と油の関係(27)にある水野の与助尾根分析作業を「宮坂氏の分析に依拠しつつ、さらに発展」(28)させたと総括し、与助尾根集落の四期区分案を『茅野市史』における再検討作業ではじめて登場したものであるかのように発言している(29)こととも合わせて、確信犯的ともいえる勅使河原の一連の学史捏造行為に対しては大きな危惧と驚きを禁じえないのである。

 


 「日本における最初の原始集落の全掘例」という与助尾根「神話」の崩壊は、しかし、調査者の宮坂英弌にとっては、少しも意外でも驚くべき事態でもなかったことに注意しなければならない。

 与助尾根遺跡が宮坂によって発見されたのは戦前の一九三五年五月にまでさかのぼる。その端緒となったのが東嶽第四七三四番第三〇八四号に所在する原野から出土した一基の石囲炉であり、開墾を手伝いながら本例の調査にあたった宮坂は、「第三〇八四号は、地主の了解を得られなかったので石囲炉址一ヵ所の出土のみにとどまる」(142頁)こと、「この炉址を中心とする竪穴住居址がある筈であるが、当時私にその知識がなかったので、石囲炉の発掘のみで終ってしまった」(143頁)ことを一九五七年の報告書『尖石』の中に記している(30)。

 また、報告書の考察部分でも宮坂は本遺跡の台地北側平坦面を中心とした「無遺構地区」のあり方に言及し、本地点における発掘は一九四九年六月に行なわれたごく部分的なトレンチ調査のみで終了したこと、本地点では「住居址は発見されなかったが、竪穴が、即ち第一七址の北二米に一ヵ所、第一五址の北一八米に三ヵ所、計四ヵ所が発見された。これにより、なお、この地域に数多くの竪穴が埋没するものと予想される」(243〜244頁)ことを記している(31)。

 すなわち、調査者の宮坂には、「与助尾根にては充分の発掘調査をなし得なかった」(243頁)という感懐はあったとしても、本遺跡が「日本における最初の原始集落の全掘例」であるという意識はいささかも存在してはいなかったのであり、宮坂の調査に全面協力した藤森栄一も、「与助尾根は、いな南傾斜面の発掘のみで(中略)馬蹄形又は環状集落を形成するか、又はその弧状のみの集落かはわかっていない」という率直な感想を一九六六年の論文の中で明らかにしている(32)。与助尾根遺跡が「日本における最初の原始集落の全掘例」であるという日本考古学の「定説―神話」は、調査当事者も与り知らないところで作り出された、まったくの「創作」であり、本遺跡の真の意味での全面発掘を最後まで夢見たであろう宮坂のパイオニア精神をかえって踏みにじるものであったといわなければならない。

 


 ところで、佐々木がこの問題に言及するのは、実はこれが最初ではない。
 すなわち、与助尾根遺跡で試掘調査が実施される一九九八年の二年前の論文『水野集落論と弥生時代集落論』において水野集落論の体系的な批判を試みた佐々木は、その一節で宮坂や藤森の先の言葉を紹介しつつ、次のように書いている(33)。

 「水野の与助尾根集落論は、さらに以上の諸点以外にも、これまでほとんど注意されたことのないいくつかの重要な誤りを含んでいたことを付け加えなければならない。その一つは戦後の五次にわたる正式調査以前に発掘された石囲炉の問題である。(中略)土地所有者の反対もあり、本地点約二五二坪については現在に至るまで正式調査は実施されないままになっているが、炉の形態や面積、五号と二二号住居にはさまれるという立地条件などを勘案するならば、この付近には数軒の、それもおそらくは中期後半期に属する住居群が分布していた蓋然性はきわめて高いとみるのが妥当であろう。ところが、水野の与助尾根遺跡に関するこれまでの分析作業の中には、以上の可能性はおろか、一九三五年の石囲炉出土の事実に触れた記述は何故か一切みあたらない。それは水野が呈示する与助尾根集落全体図の場合でも同様であり、石囲炉出土地点にあたる西群中央のB・C小群にはさまれた区域は、二八軒の密集分布する住居群の中で、まるでそこだけがぽっかりと穴が空いたような奇妙な空白域(図3中の佐々木が「?」記号を付けた部分)を二五m近くにわたって形づくっているのである。一体、宮坂の発見した石囲炉はどこに消えてしまったのであろうか。きわめて不可解というほかはない。」

 「もう一つは与助尾根遺跡が占地する台地北斜面に広がる「無遺構地区」の問題である。(中略)一九五七年の報告書『尖石』によれば、台地北斜面に対する発掘は一九四九年の東嶽第四七三四番第一三四号付近を対象としたごく限定的なトレンチ調査例があるだけであり、報告者の宮坂自身も「与助尾根にては充分の発掘調査をなし得なかった」ことをはっきりと認めている。さらに宮坂の学友ともいえる藤森栄一も、「与助尾根は、いな南傾斜面の発掘のみで(中略)馬蹄形又は環状集落を形成するか、又はその弧状のみの集落かはわかっていない」という記述を一九六六年の論文に残している。勅使河原、そしてもちろん水野は、与助尾根集落のもっとも基本的な構成にかかわる宮坂らの証言を、一体、どのように受けとめていたのであろうか。」

 「先の石囲炉例を引き合いに出すまでもなく、与助尾根遺跡が「日本における最初の原始集落の全掘例」であったという「定説」は、調査当事者も与り与り知らないところで作り出された水野らのまったくの「創作」でしかない。与助尾根遺跡は、なお未完掘の、しかも中期初頭から中期終末期近くませ少なくとも四段階に区分が可能な集落例として存在していたのであり、実際に全面発掘が実施された場合の本遺跡は、従来とは異なる集落像、従来とは異なる集落分析結果、したがって従来とは異なる与助尾根集落論を縄文時代の研究にもたらす可能性を確実に秘めていたことが注意されるのである(中略)。不完全な集落を対象とした、不完全なデータにもとづく、不完全な分析作業は、その根本から速やかに修正されるべきであり、それでもなお具体的な論拠を示さないまま、水野論を一方的に正当化する声が日本考古学の中にあるとすれば、それはもはや科学ではなく、宗教である。」(34)

 ここで改めて一九九八年の試掘調査の成果に視点を戻せば、今回、新たに確認された一一軒の住居のうち、約四軒は台地北側の「無遺構地区」、約三〜四軒は「?」記号を付けた東嶽第三〇八四号付近から発見されており、後者には本遺跡発見の端緒となった一九三五年調査の石囲炉(遺構14 V区I7e1)も含まれている(図4)。宮坂および藤森の先の証言と、佐々木の「見通し」と呼ぶことも憚られる当然の指摘の正しさはまさしく具体的な形で裏付けられたというべきであり、しかも、今回の試掘調査がなお多くの制約を伴うものであったことは調査報告者自身が率直に認めていたところである。

図4

 かつて『縄文時代集落復原への基礎的操作』の中で「発掘範囲、発掘範囲外の遺構の有無、遺構の正確な実測、遺物の詳細な発見状況すら十分に図示されていない現状では、多くの発掘は生きた歴史に連ならないであろう」(32)というきわめて格調高い縄文時代集落論批判を展開することになった水野正好。諏訪清陵高校地歴部の一員として実際に与助尾根遺跡の発掘に参加することになった戸沢充則。一体、この二人は、今回の以上のような事実をはたしてどのように総括するのであろうか。彼らもまた、先の勅使河原同様、与助尾根遺跡を改めて「日本における最初の全面発掘例」として紹介し、自らの与助尾根集落分析作業の破産にはついに触れようとはしないのであろうか。もしそうであれば、こうした学史や分析結果の捏造と、あの前・中期旧石器捏造事件との間には、一体、どのような違いが存在するというのであろうか。

 与助尾根遺跡を舞台にした今回の試掘作業の結果は、歴史的な真理の究明よりも誤謬だらけの学史や定説の賛美と絶対化を繰り返す与助尾根集落論、否、日本考古学そのものへのまぎれもない鎮魂歌、レクイエムであったといわなければならない。


  

(1)戸沢充則「縄文時代の住居と集落」『長野県史 考古資料編』一―四 一九八八
(2)宮坂英弌「尖石先史聚落址の研究」『諏訪史談会報』三 一九四六 同『尖石』一九五七
(3)和島誠一「原始聚落の構成」『日本歴史学講座』一九四八
(4)茅野市教育委員会『尖石遺跡―平成15年度記念物保存修理事業(環境整備)に係る試掘調査報告書』二〇〇四 同『尖石遺跡―平成17年度記念物保存修理事業(環境整備)に係る試掘調査報告書』二〇〇六ほか
(5)茅野市教育委員会『与助尾根南遺跡』一九八〇
(6)佐々木藤雄「和島集落論と考古学の新しい流れ―漂流する縄文時代集落論」『異貌』一三 一九九三
(7)百瀬忠幸『中山間総合整備事業地内埋蔵文化財発掘調査報告書』大桑村教育委員会 二〇〇一
(8)かながわ考古学財団『川尻中村遺跡』二〇〇二
(9)環状列石の現在的な上限例であり、その初源期の姿を示していた可能性が考えられる「集落内環状列石」、およびそれに後続する「集落外環状列石」をめぐる問題については、次の論文などに詳しい。佐々木藤雄「環状列石と地域共同体」『異貌』一九 二〇〇一 同「環状列石と縄文式階層社会―中・後期の中部・関東・東北」安斎正人編『縄文社会論』同成社 二〇〇二 同「環状列石初源考(上)(下)」『長野県考古学会誌』一〇九、一二〇 二〇〇五、二〇〇七ほか
(10)「長野県茅野市尖石遺跡では「土台大の自然石の大塊二三個が、ほぼ等間隔をもって、長さ一〇米に亘って飛石のように一列に並べてあった」とされる「列石群」が出土している。詳細は不明であるが、尖石ではこの「列石群」の下部から性格不明の土壙も検出されている。「列石群」が位置するのは中央広場と考えられる空閑地であり、北側八mからは自然石を載せた状態で単独で埋設された大形土器が発見されている。本例も直線状配石の一種としてとらえられるのかどうか。縄文中期文化がもっとも繁栄した八ヶ岳山麓地域における環状列石の将来における発見の可能性ともあわせて、きわめて興味深い事例といえる。」佐々木藤雄「環状列石と縄文式階層社会―中・後期の中部・関東・東北」(前掲註9)
(11)宮坂英弌「八ヶ岳山麓与助尾根先史聚落の形成についての一考察」『考古学雑誌』三六―三・四 一九五〇 同『尖石』(前掲註2)
(12)水野正好「縄文式文化期における集落構造と宗教構造」『日本考古学協会第29回総会研究発表要旨』一九六三 同「縄文時代集落復原への基礎的操作」『古代文化』二一―三・四 一九六九
(13)茅野市教育委員会『特別史跡尖石遺跡―平成10年度記念物保存修理事業(環境整備)に係る試掘調査報告書』一九九九 同『尖石遺跡整備報告書(1)―与助尾根地区環境整備事業報告書』二〇〇五
(14)水野正好「縄文式文化期における集落構造と宗教構造」(前掲註12)
(15)水野正好「縄文時代集落復原への基礎的操作」(前掲註12)
(16)なお、水野の二棟一家族論の内容は年を追って大きく変化しており、当初の「(単婚?)小家族」は最終的には「拡大家族」的な存在に変更されるなど、到底、同一の枠内ではとらえきれないあり方をみせている。以上の問題については次の論文に詳しいが、この点をあいまいにした、あるいはこの点を弁別できない二棟一家族論をめぐる議論は、まったく無意味であろう。佐々木藤雄「水野集落論と弥生時代集落論(上)(下)」『異貌』一四、一五 一九九四、一九九六
(17)塚田光「平出遺跡の縄文土器「第3類A」」『考古学手帳』二〇 一九六三
(18)後藤和民「土偶研究の段階と問題点(III)」『考古学手帳』二四 一九六四
(19)ふれいく同人会「水野正好氏の縄文時代集落論批判」『ふれいく』創刊号 一九七一
(20)佐々木藤雄「「縄文時代集落論」の現段階」『異貌』二 一九七五 同「与助尾根集落論の再評価」『異貌』九 一九八一 同「水野集落論と弥生時代集落論(上)(下)」(前掲註16)
(21)勅使河原彰「第四節四 宮坂英弌と尖石・与助尾根遺跡」『茅野市史 上巻 原始・古代』一九八六
(22)佐々木藤雄「与助尾根集落論の再評価」(前掲註20)
(23)戸沢充則「縄文時代の住居と集落」(前掲註1)
(24)勅使河原彰「第四節四 宮坂英弌と尖石・与助尾根遺跡」(前掲註21)
(25)茅野市教育委員会『特別史跡尖石遺跡―平成10年度記念物保存修理事業(環境整備)に係る試掘調査報告書』 同『尖石遺跡整備報告書(1)―与助尾根地区環境整備事業報告書』(前掲註13)
(26)勅使河原彰『原始集落を掘る・尖石遺跡』新泉社 二〇〇四
(27)与助尾根集落を三時期に分割した宮坂に対し、水野が二分割案を対置させたことは前述した通りであるが、一方、かつて藤森栄一は「二軒ずつ三組の一グループが東・西にそれぞれ並存しながら同じように移動したという説(中略)については、発掘者宮坂氏からの反対もあり、一般を説得するだけの努力をつくされていない」という指摘を行っている。宮坂による水野の与助尾根集落論の評価を知る上からもきわめて興味深い発言であり、以上の事実のどこからも勅使河原が主張するような「水野正好氏が宮坂氏の分析に依拠しつつ、さらに発展」させたという事情をうかがうことはできない。藤森栄一「原始古代聚落の考古学的研究について」『歴史教育』一四―三 一九六六
(28)勅使河原彰「第四節四 宮坂英弌と尖石・与助尾根遺跡」(前掲註21)
(29)勅使河原彰「第四節四 宮坂英弌と尖石・与助尾根遺跡」(前掲註21)
(30)宮坂英弌『尖石』(前掲註2)
(31)宮坂英弌『尖石』(前掲註2)
(32)藤森栄一「原始古代聚落の考古学的研究について」(前掲註27)
(33)佐々木藤雄「水野集落論と弥生時代集落論(下)」(前掲註16)
(34)これも旧稿で触れたことであるが、報告書所収の「与助尾根遺跡発掘竪穴住居址分布図」などを参照するならば、東西に細長く伸びる与助尾根集落の径は一五〇m前後とみるのが妥当である。これに対し、水野正好の集落分析作業を紹介した坪井清足の一九六二年の「与助尾根竪穴住居構成図」、さらに本図を転載した水野の一九六九年の「与助尾根遺跡のうつりかわり」は東西の径を二倍の約三〇〇mと誤って表示しており、しかもこれらの誤りに訂正が加えられた形跡は今日に至るまで認められない(図3上段参照)。しかも、本遺跡のスケールをめぐる初歩的な誤りは、単に水野一人にとどまらず、一九七九年の『図説日本文化の歴史』から一九八三年の『長野県史』掲載の「尖石・与助尾根南・与助尾根遺跡地形・遺構分布」図、一九九四年の『考古学研究』の「教科書に登場する遺跡」、『縄文時代研究事典』の同種の図に至るまで実に広範囲に及んでいる。「教科書に登場する」ほどの著名な遺跡の図面の誤りが、しかも社会的な影響力のある一連の著作を舞台に、何故、これほど長期間にわたって放置されたままであるのか。そこに共通してみられる緊張感と批判精神の欠如に対しては深い憂慮の念を禁じえない。坪井清足「縄文文化論」『岩波講座日本歴史』一 一九六二 水野正好「「縄文時代集落復原への基礎的操作」(前掲註12) 都出比呂志「ムラとムラとの交流」『図説日本文化の歴史』一 一九七九 長野県『長野県史考古資料編』全一巻(三)一九八三 宮下健司「教科書に登場する遺跡 尖石遺跡」『考古学研究』四一―一 一九九四 戸沢充則編『縄文時代研究事典』一九九四


ホーム