広瀬和雄『日本考古学の通説を疑う』を疑う
  
               
佐々木藤雄


今回紹介する佐々木藤雄さんの論文は、2004年5月に刊行された「異貌」第22号(共同体研究会)に掲載されたものです。
 今回は元になるテキストデータを佐々木さんより提供していただき、案内人がそれをWEBに載るように最小限度の手を加えました。本来は縦書きのため年号などは漢数字が使用されていました。今回は誤変換を避けるため、あえてそのままとしましたので、ご了承下さい。
 最後になりましたが、データの提供と公開のご承諾をいただきました佐々木藤雄さんにこの場をお借りして、厚くお礼申し上げます。


I 東の縄文文化論、西の縄文文化論

 縄文時代の研究は、先行する旧石器時代と同様、長らく日本考古学における「東高西低」の分野として発展してきた。縄文時代を専門とする研究者は、当該期に関する資料同様、圧倒的に東日本に偏在しており、その傾向は、南九州における「もう一つの縄文文化」(1)の発見など、西日本地域で新たな動きが顕在化しつつある最近においても基本的に変わらない。

 しかし、あの前・中期旧石器捏造事件を契機として東日本を中心とする旧石器時代研究は出口のみえない混乱状態に陥っており、自己弁護と総懺悔の声が入り乱れる中、議論の多くは石器鑑定の科学性という技術的な問題に費やされている。また、縄文時代の研究もマスメディアと一体となった「新発見・大発見」の大合唱とは裏腹に議論そのものは沈滞気味であり、青森県三内丸山遺跡の発掘を契機とした「縄文文明論」・「縄文都市論」をめぐるSFもどきの不毛な空騒ぎを除けば、較正暦年代にもとづく年代見直し作業(2)などにわずかに活気が認められるだけでしかない。縄文時代の基本構成にかかわる社会論や集落論は一九八〇年代より続く停滞期から抜け出せないままであり、土器型式論や編年論も個別分散的傾向を強める中で、それらを縄文社会論や文化論に昇華しようとする動きは限定的なものにとどまっている。

 こうした東日本を中心とする研究のあり方とは対照的に、近年の西日本では、特に関西地方をフィールドとする研究者による縄文社会論・縄文文化論が盛んに提出されている。一九九九年の泉拓良の『新たな縄文観の創造に向けて』、二〇〇二年の藤尾慎一郎の『縄文論争』などがそれであり、さらに昨二〇〇三年には広瀬和雄の『日本考古学の通説を疑う』が刊行されている(3)。それぞれの刺激的な題名が示す通り、以上の諸論考は縄文時代をめぐる従来の議論に検証の錘を深くおろし、その見直しを通して縄文時代研究の今後の可能性を模索しようとするものであり、とりわけ新しい縄文文化像の構築と呈示を最重要課題に据えている点で、ミクロ的な視点のみを肥大化させつつある東日本との差異を際立たせている。

 しかし、振り返ってみれば、こうした東と西との間の一種の逆転現象は決して最近だけに限った傾向ではない。一九六二年刊行の『岩波講座日本歴史』第一巻に掲載された坪井清足の西の視点からの『縄文文化論』が未だに縄文社会論・縄文文化論のモデル的な位置を占めていることは周知の事実である(4)。さらに本稿の中で坪井が紹介することになった水野正好の長野県与助尾根遺跡をめぐる集落分析試論、いわゆる二棟一家族論≠ニ三家族(二棟一家族)三祭式(石柱・石棒・土偶)分掌論≠ェかつてない衝撃を東日本を中心とする研究者に投げかけ、縄文時代集落論のその後の方向性を大きく規定していった経緯もよく知られている通りである(5)。

 それに対抗するような東日本からの問題提起としては、もちろん、戦後いち早く提出された和島誠一の『原始聚落の構成』が著名であり、さらに近年でも小林達雄の『原始集落』や林謙作の『縄文社会の考古学』、安斎正人編『縄文社会論』などの中に縄文社会論・文化論の総合化・体系化に向けての動きをみてとることができる(6)。とりわけ一九四八年刊行の『日本歴史学講座』に掲載された和島の『原始聚落の構成』は、史的唯物論的な立場から考古資料を用いた原始・古代史の解明、とりわけ当該社会の経済的・社会的構成の科学的な解明を模索した記念碑的な作業として知られており、戦後の「原始古代集落論の原型」(7)として、日本考古学に新たな水路を切り拓く画期的な業績であったことは改めてのべるまでもない。

 しかし、こうした作業を除けば、縄文社会論・縄文文化論の総合化に向けての動きは全体的に不活発であり、それを標榜する作業の場合でも、論理性や具体性を著しく欠いたものが少なくない。

 一九七五年刊行の第二次『岩波講座日本歴史』第一巻に掲載され、何かと坪井の『縄文文化論』と対比されることの多い岡本勇の『原始社会の生産と呪術』は、一般的には和島の氏族共同体論の後継的な作業として知られている(8)。本稿を例にとれば、「ゆるやかな発展」論でも知られる『原始社会の生産と呪術』は、「縄文文化の、いわば停滞的な性格は、採集経済のもつ歴史的法則にねざしていることはあきらかである。(中略)いうまでもなく、その社会は、階級以前の社会であり、そこでは人間対人間の矛盾よりも、人間と自然とのあいだの矛盾のほうがつねに主要なものであった」という言葉に象徴されるように、全体にわたって人間社会史的な動的な視点を欠いた、公式主義的な記述で埋め尽くされており、「個人的労働」の形成やそれに伴う世帯の主体性の強化など、採集経済下における「人間対人間の矛盾」に対しても明確な視点を確保していた先行する和島の作業と比べて、むしろ限りない後退を重ねていたことが指摘される。

 同じく和島の氏族共同体論の後継的な作業として知られる勅使河原彰の一九九八年の『縄文文化』は縄文時代の社会構成の復元が中心課題に据えられた意欲的な論考であり、分析対象も住居と家族の構成、集落と共同体、婚姻のあり方等々、多岐に及んでいる(9)。しかし、本稿も、当該期を互恵と平等主義につらぬかれた氏族共同体社会とみるいわゆる「ポスト和島集落論」(10)的立場が絶対化されていることから、実際に描かれた縄文社会像はごく固定的かつ平板的であり、岡本論同様、歴史のダイナミズムに欠けた教条的な作業に終わっている。

 前・中期旧石器捏造事件で「改訂」を余儀なくされた岡村道雄の二〇〇〇年の『縄文の生活誌』(11)に至っては、旧石器人「クグ」、縄文人「アカメ」、「千五百年の長きにわたって続いた五百人近い人々のムラ」としての三内丸山遺跡など、全編がフィクション、否、「文化的捏造」(12)で埋め尽くされていたといっても過言ではない。

 さらに縄文時代を「森林性新石器時代」と位置づける今村啓爾の二〇〇二年の『縄文の豊かさと限界』も、「現在の日本国の範囲は、ほぼ縄文文化が広がった範囲に一致している。しかし歴史的にみると、それは江戸時代における日本の影響力の拡大と明治初期における北海道、沖縄の領有という比較的新しい出来事によって形成されたもので、歴史的日本の範囲は縄文文化の範囲よりずっと狭くなり、江戸・明治における拡大まで狭い状態が続いてきた。この狭くなるきっかけは、縄文から弥生への移行時における日本列島文化の三分に行きつく」という部分に独自の主張が認められるものの、大半は従来から提起されている各論の無難なまとめに終始しており、その傾向は特に社会構造にかかわる部分で著しい(13)。

 マクロ的な視点に立った縄文社会論・縄文文化論の総合化と体系化、何よりも新しい縄文文化像構築に向けての動きが、有り余るほどの多様な資料に恵まれた東日本ではなく、遥かに多くの資料的制約を伴う西日本においてかえって顕著であるようにみえる事実は何とも皮肉であり、そこには現在の縄文時代研究の停滞・閉塞をもたらしているものの実態の一端が、きわめて象徴的な形で示されていたといっても誤りではない。

II 西日本考古学の新しい世代

 ところで、このような西日本の縄文社会論・縄文文化論は、決して看過することのできないもう一つの重要な特徴を内包していたことが指摘される。坪井や水野をはじめとして、先にあげた研究者のほとんどは、実は弥生時代や古墳時代を専門とする研究者で占められており、かれらの意欲的な問題提起の陰には、縄文時代とは対照的ともいえる西日本の多様な資料を基盤とした弥生〜古墳時代の豊かな研究成果が控えていたという事実である。

 弥生時代の集落を構成する基礎的な単位となりうる集団、すなわち「単位集団」の提起を通して、縄文時代からさらに旧石器時代にまでさかのぼる社会組織の考古学的手法にもとづく探求に大きな足跡を残すことになった一九五九年の近藤義郎の『共同体と単位集団』の学史的な意義については改めて説明を加えるまでもない(14)。この近藤の作業が象徴するように、自らの専門とする時代にとどまらず、前後する時代をも見通した広域的・広角的な社会論や文化論は西日本考古学の伝統にほかならず、その背景には、つねに歴史学と直截的に対峙し、その成果を否応なしに意識せざるをえない弥生時代や古墳時代の研究を中心とする西日本独特の研究風土、言葉をかえれば原秀三郎がかつて「考古学至上主義」(15)と評した強い自意識にもとづく「西日本中心史観」、「弥生時代中心史観」(16)が存在していたことが指摘される。

 縄文時代に先行する初期の段階から農耕社会に至るもっとも基礎的な単位としての「世帯群」の歴史的・論理的な追究を試みた一九八九年の都出比呂志による『日本農耕社会の成立過程』(17)は、以上の伝統をもっとも濃密に体現した作業といえるものであり、その遺伝子は、考古学の現代的意義を明確化した『日本考古学の通説を疑う』の次の言葉が示すように、最近の泉、藤尾、広瀬らの作業にも着実に受けつがれている。「いったいに、片言隻句たる事実をいくら提示されても、歴史を認識できるはずがない。体系的に叙述された歴史像を除外しては、それはかなわない。そもそも歴史の認識とは、私たちが生きている「いま」を因果論的に考える、と同義である。過去からの累積にしかすぎない現代社会のよってきたる所以を、過去への遡及をとおして因果論的に説明する。それが歴史学としての考古学の重要な役割である。」(18)

 ただし、西日本考古学の伝統を受けつぎながらも、広瀬らの拠って立つ基盤は近藤や都出らとまったく同一であったとはいいがたい。

 たとえば泉の『新たな縄文観の創造に向けて』の場合、本稿の大きな目的は草創期〜晩期の六期に区分された旧来の年代観と「その日暮らしの野蛮で未開の社会」とみなされてきた縄文観の見直しにあり、以上の視点から泉は「模索期・実験期・安定期」という三期区分案を提示し、定住や貯蔵システム、階層化、集落間分業などに特徴づけられた「縄文的豊かさ」への注意を喚起している。

 また、新しい縄文時代像の提示を通して縄文文化を世界史の中に位置づけようと試みる藤尾は、農業と牧畜の開始を指標としてきた従来の新石器文化の定義を「更新世から完新世へむかう気候変動にともなって、世界各地の人類が新しい環境に対応してできあがった文化」へと変更し、既成の新石器文化概念と何かと齟齬の多かった縄文文化を、日本・朝鮮・中国東北部・沿海州の東アジア中緯度地帯に展開した「新石器文化東アジア類型」の一つとしてとらえかえす考えを明らかにしている。

 かれらの作業の中には、西日本考古学の代名詞でもあった近藤の「単位集団論」や都出の「ネオ単位集団論」(19)の残滓は何一つ見当たらないのであり、単位集団論の縄文時代版ともいえる水野の二棟一家族論≠フ亡霊に未だに呪縛されている小杉康(20)ら東日本の縄文時代研究者と比べても、その差は歴然としている。

 逆に泉は、縄文時代研究者を「古い縄文観」に縛りつけてきた大きな要因として、一九世紀以降脈々と受けつがれてきた社会進化論的な歴史観、狩猟採集民に対する農耕・文明民の偏見、中心としての中国に対する周辺意識、などをあげている。新石器文化の定義の見直しを試み、史的唯物論に立脚したG・V・チャイルドの新石器革命論を批判するJ・トーマスを高く評価する藤尾も、「経済の変化がないとすべてのものが、特に文化的な事象が変化しないという考え方こそ反省すべきだ」と強調するトーマス論の背景には、ソ連邦崩壊を契機とした「共産主義への幻滅、史的唯物論への疑問、そして何よりも物質文明への痛烈な批判」があったことを指摘している。 

 泉らのこうした指摘、とりわけ社会進化論的な歴史観に対する批判が、程度の差はあれ、ともに史的唯物論的な色合いを強くにじませる近藤や都出の分析作業にそのままあてはまるものであったことは疑いない。

 明らかにかれらは、近藤とも都出とも異なる新しい世代に属していることに注意しなければならない。



III 交代する「西欧発の外在的論理」

 こうした新しい世代による縄文社会論・縄文文化論の中でもとりわけ注目されるのが広瀬の作業である。

 「昨今の日本考古学を席巻している多様性・地域性研究の相対主義」と「体系的歴史像構築への志向性の弱さ」を批判し、膨大な考古資料との間の埋めがたい乖離を日々に大きくしながら「日本考古学を呪縛しつづけている通説・定説の類い」に検討を加えることによって「新しい地平」を切り拓こうとする広瀬の『日本考古学の通説を疑う』は、第1部「日本考古学〈再考〉」と第2部「考古学の通説・定説を疑う」の二つから大きく構成されている。このうち、縄文時代に関する部分は主として第2部第三章「〈貧しい縄文〉を弥生文化が救ったのか」の中で扱われている。タイトルにもあるように、本章の主題は縄文から弥生への歴史的移行をめぐる問題、しかもその歴史的な評価に向けられており、考古資料にもとづく個別具体的な分析、記述はきわめて少ない。

 それにかわって広瀬が真っ先に俎上にのせるのが「縄文文化いきづまり・弥生文化救済論」である。「縄文人は拡大再生産のきかない自然を相手に〈食うや食わずのその日暮らし〉をしていて、もうどうしようもない〈レ・ミゼラブル〉な社会の状態に立ちいたっていた。そうした状態を、コメ生産をひっさげた弥生文化が救った」というのがその内容である。

 多くの考古学研究者がこのような「縄文文化いきづまり・弥生文化救済論」に今もなお強く呪縛されたままであるとする広瀬は、これに対し、「縄文の側に滅びの原因はなかった」という考えを従来の「通説的理解」に対置させ、次のように主張している。「縄紋から弥生への移行は本当に必然的なコースだったのだろうか。これまでは、水田稲作の弥生文化があたかも救世主のごとく現れて、採集狩猟の獲得経済の限界を打ち破ったのだといわれてきた。しかし、獲得経済の社会はそれなりに安定していたふしも見える。これからは縄文文化と弥生文化を、二つの独立した文化類型として、各々の特質を追求し、比較していくことが大切なように思える。」

 すなわち、「縄文の側に滅びの原因はなかった」根拠として広瀬があげるのは、第一に「縄文社会に余剰はあった」という点であり、狩猟・採集社会は「最初の豊かさあふれる社会」であったとするM・サーリンズの主張(21)、小林達雄が「第二の道具」(22)と呼ぶ「精神的かつ宗教的色彩の強い各種製品」、「勝坂式の火炎土器に代表される精製土器の華美なまでの装飾性」などを援用しながら、「〈食うや食わずのその日暮らし〉で余剰などはあるはずがない」という従来の「一般的通念」を「荒唐無稽の先見主義」にしかすぎないと退ける。

 第二の根拠は、北の続縄文文化、南の貝塚後期文化の存在が証明しているように、獲得経済は「コメ生産を機軸においた弥生文化の力を借りずとも滅亡せずに持続した」という点であり、「縄文文化から弥生文化への移行は、けっして自明のコースなどではなかったのだ。もし水田稲作の文化と接触しなければ、およそ一万数千年もの伝統をもった縄文文化は、きっと消え去りはしなかったであろう」とまで広瀬は主張する。

 以上をふまえた上で広瀬は、食料資源に関する豊富な知識と高度な加工技術、非自給物資に関する一定程度の分業生産と交易システムなど、「網羅的かつ多角的な食料獲得方式をもっていた縄文文化」は「一年に一回しか作物が収穫できない生産方式に身を委ねる」ことを拒んだ社会であった、と結論づける。すなわち、縄文文化は自らの内部に崩壊をきたす要因を決して包摂していたわけではない。縄文文化は自壊したのではなく、徐々に増加しはじめた人口を養うため、開拓に次ぐ開拓を余儀なくされた「生産経済の果てしなき拡大主義」によって次第に駆逐されたのだ、と広瀬はいうのである。

 では、このような誤った「通説的理解」はどのようにして醸成され、考古学研究者をこれほど長期間にわたってとらえつづけることになったのであろうか。

 すでに明らかな通り、広瀬の作業の中には、先の泉らと同様、近藤の「単位集団論」や都出の「ネオ単位集団論」の残滓は微塵も認められない。逆に広瀬は、「縄文文化いきづまり・弥生文化救済論」に象徴される、生産経済以前の獲得経済社会を「無知と迷妄に覆い尽くされたカオスの原始社会」とみる歴史観を「唯物史観にもとづいた〈世界史の基本法則〉の日本列島版的叙述」として強く批判し、マルクス主義歴史学の「発展史観」や「生産力優位史観」にとらわれない新しい縄文文化像の構築を次のように促している。

 「唯物史観にもとづいた〈世界史の基本法則〉の日本列島版的叙述で問題にしなければならないのは、『家族・私有財産・国家の起源』のような西欧発の外在的論理に合致する事実は〈好意的に〉すくいあげられる。しかし、そうでない事実は捨象されるという、ごく当然の知的営為のもった特質である。もちろんどのような歴史観にしたがっても、叙述という行為が抽象―捨象を属性にしているのは自明なことである。しかし、発展という変化のキーワードに絞られた歴史は、ともすれば発展をもたらす生産経済が優れていて、そうでない獲得経済は劣っている、という優勝劣敗的な叙述になりがちである。」「縄文文化が途絶することなく、一万年以上もの永きにわたって存続した事実を、これまでの通説のように、たとえ縄文文化の側に滅亡への原因があったと考えるにしても、それだけ長期にわたってつづいたものが、なぜ前十世紀ごろになって姿を消してしまったのか。それが、歴史学の課題として追求されなければならない。いまいちど縄文文化をしっかりと評価しなければならない。」

 縄文時代の新しい時期区分案の提示とあわせて「新しい縄文観」の創造を模索する泉。農業が最高の手段という「経済至上主義」への疑問をふまえ、縄文文化の定義と弥生変革の意味を改めて問う藤尾。そして、自らを生産経済に委ねることを拒んだ縄文文化を弥生文化の単なる前史に落としこめることを否定する先の広瀬。かれら、近藤・都出とは際立った対照をみせる新しい世代の縄文文化再評価作業の背後では、狩猟採集民が現代人にも劣らない豊かさを保持していたというM・サーリンズ、A・テスタール、K・ポランニーらの狩猟採集文化見直しの動きに対する共鳴と連帯、つまりは「西欧発の外在的論理」の廃棄ならぬ新旧主役の交代という、もう一つの大きなドラマが進行していたことが知られるのである。

IV 「発展史観」と「類型的史観」

 では、「発展史観」によって歪められたといわれる縄文文化像の見直しはどのようにして可能なのであろうか。

 先の広瀬についていえば、かれは日本考古学を呪縛し、縄文文化の正しい評価を阻むものとして、「発展史観」以外に「基層史観」と「万世一系的歴史観」の二つを付け加えている。優勝劣敗的な生産力優位史観が「発展史観」であるとすれば、西尾幹二の『国民の歴史』(23)のように、「日本文化の基層には〈縄文・弥生の一万年〉が潜在」していたとして日本文化の悠久性と民族の優秀性を一体のものとして誇示するのが「基層史観」であり、戦前の皇国史観や単一民族史観のように、単一系譜で途切れることのない連続的な歴史を一方的に強調するのが「万世一系的歴史観」である。「基層史観」と「万世一系的歴史観」との厳密な区分が可能であるかどうかはさておき、以上の三つの歴史観に共通する問題点として「不連続や断絶にともなう葛藤や軋轢」に対する無関心、「ひとつの目的への到達にはいくつものコースがあり得る」という幅の広い思考方式の欠如などを指摘した広瀬は、それらに代わるものとして「類型的史観」と呼ぶ独特の歴史観の必要性を提唱している。

 すなわち、広瀬によれば、水田稲作の導入によってそれまでの縄文文化は、続縄文文化、弥生文化、貝塚後期文化の三つの文化に分裂を余儀なくされる。北日本や東日本、西日本といった地域的偏差をもちながらも、「採集・狩猟・漁撈・栽培の多角的な獲得経済という意味では均質的であった縄文文化」にかわって、水田稲作を採用した人々とそうでない人々の多彩な文化を日本列島に花開かせ、その後の「いくつもの日本」への端緒を切り拓くことになったのが弥生時代であり、水田稲作の定着と普及にほかならなかった。そうであれば、これまでの日本考古学のように北と南への視点をあいまいにするのではなく、「水田稲作を基調とした文化に同調しなかった地域の実態を、問題意識的に解明していくこと」、いいかえればそれぞれの文化を独立した文化類型としてとらえ、他の文化類型との関係の中でそれぞれの特質を比較・追求していくことが今後の緊要な課題である、というのが広瀬の主張する「類型的史観」の概要である。

 では、このような「類型的史観」によって、新しい縄文文化像の構築、考古学の「新しい地平」の開拓は本当に可能なのであろうか。

 ここで改めて問題にしたいのが「類型的史観」と呼ばれるものの内容である。いわゆる中央史が軽視し、あるいは切り捨ててきた周辺の文化を、その類型化を通して正当に評価していこうとする「類型的史観」の視点が、既成の考古学や古代史の内包する弱点・限界をうきぼりにしていたことは確かである。しかも、広瀬による「類型的史観」は、弥生時代の開始年代が五〇〇年ほど遡及するという二〇〇三年三月の国立歴史民俗博物館研究チームによる衝撃的な研究報告をふまえた縄文から弥生への歴史的移行、とりわけ水田稲作の拡大力とその生産性の見直しの動きをふまえる形で提起されている。いわれるように弥生時代の始まりが前一〇〇〇年頃までさかのぼるとすれば、縄文から弥生への移行と水田稲作の拡大力は従来考えられてきたほど劇的でも強力でもなく、その開始から数百年ほどかけてすこぶる緩慢に、日本列島各地に普及・定着していったとみなければならず、各地域における縄文文化から弥生文化へのこのような段階的変移を考古資料に即して描き出していく作業が今後の重要な課題として登場する。それに対する一つの答えが、すなわち、広瀬の「類型的史観」であったといってよい。

 しかし、こうした学史面での意義を除けば、新しい「外在的論理」に触発されつつ、古い「外在的論理」に頼らない縄文文化像の復元を模索する広瀬の「類型的史観」の中味は、その言葉ほど斬新であったとはいいがたい。

 ここで改めて紹介したいのが、縄文時代の段階区分と歴史的な評価をめぐるこれまでの学史を整理し、この問題にかかわることになった作業を次の三つに大別する谷口康浩の論考である(24)。

 一つは、縄文時代のきわめて長期にわたる歴史の中に「ゆるやかな発展と克服できない限界」を認める見解である。当該期を成立、発展、成熟、終末の四段階に区分する先の岡本勇の「ゆるやかな発展」論がその代表であり、完新世の温暖な気候の下、縄文時代の生産力はゆるやかな発展をみせ、一定の成熟を果たすが、自然の再生産を上回る生産力の行使が不可能な採集経済そのものの限界は克服されず、やがて社会の停滞を必然化するのであり、こうした矛盾は弥生農耕の成立によってはじめて克服される、と岡本は主張する(25)。

 いま一つは、これとは対照的に、着実な発展段階を経て経済的・文化的な蓄積がなされた結果、後の農耕受容と発展がはじめて可能になったという見解であり、縄文前期に原初的な農耕、西日本後・晩期に雑穀・根茎作物型の焼畑農耕が行われた可能性を指摘する佐々木高明は、しかし、この間の変化は基本的に量的なものであり、質的な変化はみられなかったと説明する(26)。

 残る一つは、縄文時代の歴史の方向性を来るべき農耕社会に向かっているとは考えない点で前二者と激しく対立する見解である。もっとも代表的であるのが縄文と弥生の問題を列島における東西二系列の異質な文化系統の対立と相克の歴史としてとらえ直そうとする岡本孝之の見方であり、さらに縄文時代の生産力はすでに早期には高い水準に達していたとみる小林達雄も、縄文から弥生への変化を単なる経済的変革という一面から評価するのではなく、異質な文化論理との接触による縄文的価値観・自然との共生という世界観の終焉として理解すべきことを促している(27)。

 ここで再び先の問題に戻れば、共に「発展史観」の色合いを強くにじませる前二者に対し、これとは明確に対峙する岡本孝之や小林らの見解、いうならば「異文化史観」の視点は、言葉や時代的背景の違いはあれ、明らかに広瀬の「類型的史観」に通じる内容を有していたことが注意される。広瀬の提起自体は、かれが意気込むほど目新しいものであったわけでは決してない。しかも、近・現代を含めた広い視野から一系列の日本文化という既成概念を批判する作業を通して、従来、辺境史として打ち捨てられてきた北と南に対する明確な視点の確立を岡本が最初に主張することになったのは一九七四年、広瀬の作業の実に三〇年も前のことである。こうした学史に目を閉ざしたまま、これまでの考古学を一方的に断罪することによって自らの主張の独自性と革新性を誇示するかのような広瀬の議論の進め方は何とも不可解であり、歴史学としての考古学の重要な役割を「過去への遡及をとおして因果論的に説明する」とした広瀬の発言自体の重みに対しても、大きな疑問を抱かざるをえない。

 また、広瀬が今もなお多くの研究者が呪縛されたままであるという「縄文文化いきづまり・弥生文化救済論」も、その姿が明瞭に認められるのは岡本勇の「ゆるやかな発展」論であり、同じく「発展史観」に立つとしても、一九九一年の佐々木高明の『日本史誕生』(28)の中にその痕跡を見出すことはもはや難しい。しかも、「網羅的かつ多角的な食料獲得方式をもっていた縄文文化」は「一年に一回しか作物が収穫できない生産方式に身を委ねる」ことを拒んだ社会であるという指摘に至っては、縄文文化を多種多様な食料資源の利用を基盤とした、特定少数の栽培種の食料資源に依拠する農耕経済への傾斜を拒んだ社会、と明確に定義づけた小林達雄の「縄文姿勢方針」(29)のコピーそのものであったといっても誤りではない。こうした事実に少しも触れることなく、また「発展史観」自体の多様性をまったく理解することなく、ひたすら「発展史観」と化石のような「縄文文化いきづまり・弥生文化救済論」の呪縛、結びつきを強調する広瀬の作業に対しては、先の「異文化史観」の評価同様、大きな事実誤認、もしくは作為を感じざるをえない。

 とりわけ驚かされるのは、「もし水田稲作を基調にした弥生文化との直接的接触がなかったならば、およそ一万有余年の永きにもわたって継承されてきた縄文文化が、そのままいまもなお続いていてもなんら不思議ではない、との予見が離れない」という、およそ歴史学に携わる者の発言とは思えない「予見」、否「妄想」である。一体、縄文文化は列島内にまったく孤立した形で発展してきたのであろうか。縄文文化は自らの存在を脅かす内部的な矛盾とはまったく無縁の社会であったのか。そもそも縄文文化は一つであったのか。

 先の岡本孝之や大塚達朗(30)が多様な系統性の認識もとづいた縄文文化の根本的な見直しを繰り返し主張していたことは周知の通りであり、谷口もこうした提起を受ける形で縄文文化の範囲に関する現在的な問題点を次のように要約している。「日本列島内部の多様な地域差が明確になるにつれて、縄文文化がはたして一枚岩だったのかどうかという根本的な疑問も生じてきた。」「日本列島の枠を越え、サハリンや朝鮮海峡を通過した文化的交流が活発に行われた場合があることを、多くの舶来文物が証明している。そのため、東北アジア全体との関連性を視野に入れて日本列島における先史文化を理解するためには、縄文文化という既成の枠組そのものを解消すべきだという意見さえある。」(31)

 佐々木自身も一九七三年の『原始共同体論序説』にはじまる一連の作業において貯蔵穴(ヂグラ)や高倉(クラ)などの貯蔵施設を手がかりに縄文時代の生産・分配関係の分析を試み、家族単位的な個別的労働とそれにもとづく労働生産物の個別的占有の進展とともに、共同労働にもとづく共同所有と原始的な平等性を基盤とする縄文社会をその内側から突き破ろうとする矛盾が、とりわけ中期以降、中部・関東地方を中心とする東日本において顕現化しつつあったことを明らかにしている(32)。その後、一九九三年の論文などで、こうした内的矛盾の高まりと一体となった当該期における家族間・集落間・地域間各レベルの経済的・社会的な不均等性の深化を階層差として明確にとらえかえすべきことを促した佐々木は、特に二〇〇〇年の論文において以上の視点から縄文時代を生成・発展・変質・爛熟の四期に区分する試案を提出し、東日本では発展期(前期〜中期後半)から変質期(中期終末〜後期中葉ないし後半)にかけて階層化の動きが明瞭になること、これに比べると西日本では階層化の動きは全般に不明瞭であり、さらに東日本でも地域的な違いが少なくないこと、縄文式階層社会に至る道のりはまさしく多様であり、そこにこそ列島の初期階層社会の歴史的な性格・特質を解き明かす鍵は存在すること、などを指摘している(33)。

 一体、広瀬は、縄文文化の内部で顕在化し、拡大化しつつあったこのような多様な地域性や矛盾を具体的にどう評価するというのか。そしてまた、以上の問題点に対する東日本を中心とした研究者の先進的な取り組みをどれだけ理解していたというのか。広瀬のいう「類型的史観」とは、結局のところ、独善と偏見、願望にもとづく「空想史観」、「たら・れば史観」にほかならず、縄文文化を弥生文化の前史に落としこめることを批判し、中央史が切り捨ててきた周辺文化の正当な評価を主張するその言葉とは裏腹に、自らの縄文観と「発展史観」観の単純さ、底の浅さをはしなくも露呈する点にこそ、唯一ともいえる役回りのあったことが指摘されるのである。

V 創造か創作か―後退する西日本考古学

 新しい縄文文化像の構築を主張する広瀬の作業には、これ以外にも看過しがたい問題点が存在している。

 その一つは、縄文社会は「〈食うや食わずのその日暮らし〉で余剰などはあるはずがない」という「一般的通念」を、サーリンズ論などを援用しつつ、「荒唐無稽の先見主義」として退ける広瀬の批判である。しかし、すでに明らかなように、佐々木は縄文時代の内的矛盾や経済的・社会的不均等性に言及することになった一九七三年の『原始共同体論序説』において、食料の長期的・安定的な確保とその供給を保障する大量の貯蔵植物の存在が、同時に縄文集落の定着化と定型化、集落規模の拡大と分布の増大としても顕現していた可能性を指摘し、縄文社会は〈食うや食わずのその日暮らし〉の社会どころか、相当程度の計画性をもった貯蔵経済社会であったことを、サーリンズやテスタールの貯蔵経済論(34)に先行、あるいは前後する形で主張している。さらに二〇〇二年の『環状列石と縄文式階層社会』では、貯蔵穴に高倉を加えた貯蔵施設の複合的な展開と剰余の蓄積を結びつける考えを敷衍する形で、階層差を「分業、すなわち個別的生産諸力の発達と剰余の一定の蓄積を基盤とした社会的・経済的な不平等・不均等にもとづく威信的な序列」と明確に定義づけている(35)。仮にも「西欧発の外在的論理」に頼らない縄文文化像の復元を標榜するのであれば、テスタールらの新しい「外在的論理」を振りかざす前に、広瀬は縄文時代をめぐるこうした足許の作業にこそ確かな評価の目を向けるべきであり、「〈縄文文化に剰余はない〉は、荒唐無稽の先見主義」という広瀬の言葉こそ荒唐無稽の創作といわざるをえない。

 いま一つは、「縄文時代には分業生産などはなにもなかった」という「自給自足社会観」は「発展史観」にもとづく誤った通説である、という広瀬の言葉である。これも前記の問題と関連するが、縄文時代における内的矛盾と経済的・社会的不均等性、さらには階層差の問題に取り組む佐々木が、そのための分析視点として分業論の重要性を指摘し、家族単位的な個別的労働形成の歴史的意義を強調することになったのも、同じく三〇年以上も前の『原始共同体論序説』である。「縄文人が分業生産と交易などするはずがない、との先入観でこうした事象は長い間、歴史の彼方に封じこまれてきた」という広瀬の指摘もまったくの創作であり、「いまこそ正当な評価の対象にしなければならない」という言葉に至っては、かれの神経を疑う。縄文時代における剰余や分業にかかわる先進的な作業を一方的な先入観で歴史の彼方に封じこめているのは他ならぬ広瀬自身の脳髄であり、分業生産と自給自足経済とを機械的に区分し、塩や干貝、玉といった非自給物資の生産のみをもとに当該期の分業を語ろうとする分業論の単純さについても唖然とするしかない。

 この他、縄文文化の豊かさとの関連でのべられた「勝坂式の火炎土器」云々という素人然とした言葉、弥生文化内部における採集・狩猟・漁撈的な要素の軽視、「類型的史観」の提起に大きな影響を与えることになった弥生開始年代遡及説そのものの蓋然性、とりわけ年代遡及説がすでに定説化されたかのような議論の是非など、広瀬論の問題点は大小、多岐にわたるが、それにしても、一体、広瀬は、『日本考古学の通説を疑う』をまとめるために、縄文文化をめぐる研究成果とその学史にどれほど目を通してきたというのであろうか。「いまいちど縄文文化をしっかりと評価しなければならない」のは、実は広瀬自身であったといわなければならない。

 ところで、佐々木がこれまで列挙してきた広瀬の問題点の多くは、実は四年前の『縄文的社会像の再構成』(36)の中で、佐々木が泉の「新しい縄文観」の問題点として指摘していたものと重なりあっていることに注意しなければならない。「つい最近まで、縄文文化は狩猟採集の文化であり、そのような文化は「遊動生活を送り、人口は希薄で、階級や階層の分化は認められず、分業も性差によるものを除くと(このような性差があるかについても、欧米では問題になっている)、ほとんど認められない」とされてきた。最近の報道で問題にされてきたのは、この点である。縄文文化は定住・貯蔵の文化であり、人口は予想以上に多く、階級はともかく階層が存在し、個々人や集落間の分業もかえって発達していて、交易も日用品に関しては、弥生時代よりも盛んであった」という『新たな縄文観の創造に向けて』の記述がそれである。

 一体、泉は、そして広瀬は、この数十年間というもの、日本考古学の何を学んできたというのであろうか。一体、日本考古学には恥の文化というものは存在しないのであろうか。相互批判の欠如は日本考古学全体が共有する重大欠陥であるとしても、こうも同じような誤り、あるいは同じような創作が繰り返される背景には、単なる学習能力の欠如というよりも、西日本の考古学の中に縄文文化とその研究を軽視する風土、体質が根強いものとしてあったことを思わずにはいられない。

 さらに、泉や広瀬に比べれば慎重な言い回しが目立つ藤尾の場合でも、「「大きい」、「長い」、「長期間」という形容詞」が冠された、「約一六〇〇年の間、継続して営まれていた」三内丸山遺跡云々というように、思わず首を傾げたくなる発言が認められる。「「大きい・長い・長期間」という言葉は「大きい・長い・多い」の単純な間違いとして済まされるかもしれないが、三内丸山が「約一六〇〇年の間、継続して営まれていた」遺跡であったとは、一体、誰がどのように証明したというのであろうか。藤尾は、AMS法による最新の較正年代が提出された結果、「三内丸山に人が住み始めるのは円筒下層a式とよばれている時期で、今から五九〇〇年calBP。終わりを迎えるのは最花式とよばれている四三〇〇calBPであった」ことが判明したとして先の結論を導き出している。しかし、藤尾自身ものべるように、縄文土器の一型式が一〇〇年近い時間幅をもつのであれば、たとえ三内丸山遺跡より前期中葉から中期末葉に至る各型式の土器が出土したとしても、それらはあくまでも「断続的に継続していた」可能性を示唆するものであり、「継続して営まれていた」証拠とはなりえないことは考古学の基本的な常識である。藤尾は本書の別の個所で三内丸山遺跡の継続期間を「少なくとも一七〇〇年間」とも説明しているが、縄文文化の根幹にかかわる重要な問題点に対する藤尾の姿勢はあまりにも安易であるといわざるをえない。

 さらに藤尾論で看過できないのが、生産経済を重要な指標としてきた新石器文化概念の見直し作業であり、従来、それとの齟齬の多かった縄文文化を「新石器文化東アジア類型」の一つとしてとらえかえす根拠として、「儀礼で用いる穀物や肉を集めるために栽培や牧畜をはじめるという、人間がもつ精神的な変化に、新石器文化の始まり(五五〇〇年ほど前)をみよう」としたトーマスの「儀礼執行説」を取り上げている。しかし、「儀礼執行説」の舞台となったブリテン島でトーマスがのべるような「儀礼執行説」を思わせる状況が認められたとしても、それを日本列島を含む世界各地の「先史社会」に一方的に普遍化し、世界史的概念である新石器文化の再定義を行うことが妥当かどうかは、まったく別次元の問題である。まして「日本列島の場合そのような精神的な変化は、定住が定着し、土偶などが出てくる早期の終わり(七〇〇〇年前頃)に起こると考えられる」という発言に至っては、意味・内容とも不明としかいいようがない。

 かつて、近藤義郎の「単位集団論」や都出比呂志の「ネオ単位集団論」の中にみられる「西日本中心史観」、「弥生時代中心史観」の批判を試み、水野正好の二棟一家族論≠単位集団論の縄文時代版と明確に位置づけた佐々木は、水野が想定するような「世帯群」を縄文時代に先行する初期の段階から農耕社会に至るもっとも基礎的な単位としてとらえかえそうとする都出の作業が、とりわけ西日本縄文社会の構造的な分析をあいまいにしたまま、単位集団論へと収束された西日本の弥生時代の集落構成を先行する各時代、各地域に強引に普遍化しようとする逆発展史観≠ノほかならないことを『水野集落論と弥生時代集落論―侵蝕される縄文時代集落論』において明らかにしている(37)。西日本考古学のこうした負の遺産は、単位集団論の呪縛から一見自由であるようにみえた広瀬らの新しい世代をめぐっても同様に看守されるのであり、縄文文化に対する徹底した不勉強と主体的な分析作業の欠如という形の手抜き、何よりも議論自体の質の低下という意味では、問題はかえって深刻化していることが憂慮されるのである。

 広瀬は『日本考古学の通説を疑う』のあとがきの中で「「旧石器発掘捏造事件」における考古学の信頼喪失の回復には、とてつもなく長い時間が必要である」とのべる一方、歴史的営為の意味を「見たことも聞いたこともない過去の世界、それを偶然に遺された遺跡・遺物を駆使して再構成する」ことであり、「そうした作業をとおして人びとの納得を獲得する」ことでもあると説明している。広瀬は、しかし、前・中期旧石器捏造事件を許容する土壌は、学史の創作と変造、捏造を繰り返して憚らない、自らの不誠実な作業の内にこそ存在していたことには、ついに気づかないのである。


VI 『日本考古学の通説を疑う』を疑う

 スローガン先行型ともいえる広瀬の『日本考古学の通説を疑う』については、最後に次の点に触れておきたい。

 「私は、「いま」をもっとも「いま」ならしめている秩序体系、まとまらないと生きていけない人間の最大の団体、そして「いま」をささえている足場こそが国家だと思う。もちろん、「いまの日本」をそうならしめている国家が、先験的にあったというわけではない。それがなかった時代もふくめて、歴史的に形づくられてきた国家の側面に研究を照射するのが歴史学だし、文字以前に関しては、考古学しかその課題を担えない。ところが国家に関しては、それこそ階級史観や発展段階論的史観によって、「階級支配は人間が生み出した悪だから、発展的に廃棄されるべき」とのイデオロギーが、わが国の知的風土をあまねくひろく覆ってきた。国家なくしては、日々の生活が成り立たないにもかかわらず、どうしてそのような精神的雰囲気が醸成されてきたのか。それには、当然のことながら理由があり、そうした考えが力をもった政治的かつ社会的状況があった。しかしながら、それから時代は大きく変貌し、もはや現実には既往の知的枠組みでは説明のつかない事態が生起している。しからば、いくばくかの未来を見通すためにも、現代にたいする認識を変えねばならないのは言うまでもない。そして、そのためにも〈結果としての現代の原因を過去に探る〉方法を構築し直さなければならない。かつてないほど国家が可視的になり、人びとが豊かに生きていくために大きな役割が期待されるいま、いまいちど所与の資料に即して、その始原を探ってみなければならない。そこにこそ、日本考古学の重要な立場があるのではないか。」

 長い引用になったが、「日本考古学を呪縛しつづけている通説・定説の類い」に検討を加える大きな理由を以上のようにまとめ、「国家は支配階級の権力であるとともに、社会の分裂を回避して総括する公共機能をもち、それゆえに社会から超越するという性格をもつ」という都出比呂志の国家観(38)をF・エンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』に沿った〈階級史観型国家〉観であると批判した広瀬は、それに続けて、〈階級史観型国家〉とも〈利益誘導型国家〉とも異なる自らの国家観を次のように描いている。「ひとつのまとまりを形成した集団の利益を保証してくれるのが国家という団体だ、と考える。それは所属した人びとの共通利益が侵されないように、軍事権と外交権を中核にすえた正当化された暴力を有する。また、国家は一体感を維持しつづけるイデオロギーを共有するための観念装置をそなえる。」

 一言でいえば国家の表面的な機能の一部を羅列しただけの、何とも歴史的視点のあいまいな国家観であり、このような形で国家の始源や未来像を補足することが可能であるのか疑問が残るが、ともあれ、ここでは以下の点について広瀬の国家論の問題を指摘しておきたい。

 第一点は、広瀬が盛んに強調する「共通利益」の内容である。広瀬はこの点に関連して三世紀中頃に成立した〈前方後円墳国家〉の問題を取り上げ、「権力財や威信財や特産物、新しい技術や労働力などの入手という、共通の利益を享受しうる団体が結成された」と、利益共同体としての国家を説明している。しかし、広瀬がここで主にのべているのは、「首長層の利益」としての特殊的な「共通利益」、「首長層の利益共同体」としての国家であって、不特定多数の人々を含めた一般的な「共通利益」では決してないことは自明である。この広瀬の説明と、国家は「特定の支配階級が不特定多数の人びとを支配するための権力機構」であるという〈階級史観型国家〉観とは一体、どこがどう違うのか。それ自体幻想的な「共通利益」という言葉同様、きわめて矛盾に満ちた、広瀬の玉虫色的な国家観であったといわなければならない。

 第二点は、現代では階級や収奪という言葉はもはや死語と化した、という指摘である。広瀬は「いったい支配階級の権力が国家だ、だからそれは止揚されなくてはならない、との観念をどれだけの現代人が抱いているのであろうか」とものべるが、では、広瀬が定義する「階級」とははたして何であろうか。階級間の高い流動性と階級意識の希薄さは確かに戦後日本社会の特質といわれる。しかし、階級分裂の土台となった生産と所有の分裂は現在でも一向に解消されたわけではなく、広瀬自身も認める富を持つ者と持たざる者との差は、バブル経済崩壊以降、逆に拡大の一途を辿っている。「国民総中流階級論」こそ死語と化しつつあったのである。自らの階級概念を明示しないまま「階級」をあれこれ議論しても、それは歴史科学とは無縁な単なる独り言でしかない。

 第三点は、「生産経済であろうが獲得経済であろうが、人びとが集団で生活を送っていく限りは、どのような時代であっても欠かすことのできない力が権力であった」という言葉である。他者を支配し従わせる強制力という「権力」の一般的な定義に従うのであれば、縄文時代にはもちろん「権力」なるものは存在しない。仮に「権力」を縄文時代まで拡大、適用するとしても、広瀬論は階級社会における「権力」と無階級社会の「権力」とを質的に区分できない「ごった煮」的論法であり、「〈政治権力は階級支配のための暴力だ〉といった通説的考え方だけでは、縄文時代がなぜ自壊せずにおよそ一万年も継続したのかが説けない」という意味不明の発言に至っては、直截的・短絡的思考でつねに終わらざるをえない、広瀬の論理性の決定的な欠如と限界を感じる。

 広瀬は「かつてないほど国家が可視的」になったとのべる。国家は、しかし、広瀬自身も幻惑されていたように、不可視の領域、不可視の部分にこそ、むしろその本質を隠している。そうした領域に深く錘を下ろし、表面的な分析だけではとらえがたい、まさしく〈幻想的な共同性〉としての本源的な姿を歴史的かつ論理的に解明していく点にこそ、国家論や共同体論、何よりも歴史学の本来的な課題と存在理由はあったのではないのか。

 あるいはまた、他者の自己責任だけは平気であげつらう「無責任国家」、国民の税金を掠め取るだけの「泥棒国家」(39)と現代の日本を揶揄する声が聞こえる中、年金問題に集約される不公平の蔓延、国旗・国家問題にみられる愛国心の強制、人道支援という名のイラク派兵、長州藩招魂場から天皇の軍隊のための東京招魂社という発展過程を辿ってきた靖国神社参拝問題、西尾幹二の『国民の歴史』に代表される、天皇制の淵源を列島史の端緒にまでさかのぼらせようとする怪しげな試み等々、これら、今、足許に広がる 具体的な問題に対して、広瀬の国家論はどのように対峙しうるというのか。

 広瀬がもっとも問題にしなければならないのは、「西欧発の外在的な理論」にかわる独自の確かな理論と真に創造的な批判的精神の不在であり、それらがもたらす考古理論、さらには特殊考古学そのものの「孤立化」(40)ではなかったのか。

 広瀬の『日本考古学の通説を疑う』を疑わなければならない。
 
〈付記〉本稿を畏友飯塚博和さんの霊に謹んで捧げたい。広瀬和雄は飯塚さんが生前高く評価していた考古学研究者の一人であった。生来の不勉強の故にかれの業績にほとんど無知であった佐々木に、広瀬の作業の可能性を野田市の整理作業事務所の一室で熱く説いた飯塚さんの姿は未だに新鮮な記憶としてある。その飯塚さんの追悼号の中で佐々木が広瀬の作業の批判を試みることになったのは何とも皮肉としかいいようがないが、飯塚さんは、はたして佐々木の広瀬批判をどのように受けとめられるのであろうか。議論を前にした飯塚さんの、あの闘志を内に秘めた微笑が思い出されてならない。



(1)新東晃一「南九州に優位で特異な文化」『鹿児島の縄文文化』一九九七ほか 
(2)谷口康浩「縄文早期のはじまる頃」『異貌』二〇 二〇〇二
(3)泉拓良「新たな縄文観の創造に向けて」『季刊考古学』六九 一九九九 藤尾慎一郎『縄文論争』講談社選書メチエ 二〇〇二 広瀬和雄『日本考古学の通説を疑う』洋泉社新書 二〇〇三
(4)坪井清足「縄文文化論」『岩波講座日本歴史』一 一九六二
(5)水野正好「縄文式文化期における集落構造と宗教構造」『日本考古学協会第二九回総会研究発表要旨』一九六三
(6)和島誠一「原始聚聚落の構成」『日本歴史学講座』一九四八 小林達雄『縄文人の世界』朝日選書 一九九六 林謙作『縄文社会の考古学』同成社 二〇〇一 安斎正人編『縄文社会論』同成社 二〇〇二
(7)長崎元広「縄文集落研究の系譜と展望」『駿台史学』五〇 一九八〇
(8)岡本勇「原始社会の生産と呪術」『岩波講座日本歴史1 原始および古代1』一九七五
(9)勅使河原彰『縄文文化』新日本新書 一九九八
(10)和島集落論およびポスト和島集落論の問題点については次の論文に詳しい。佐々木藤雄「和島集落論と考古学の新しい流れ―漂流する縄文時代集落論」『異貌』一三 一九九三
(11)岡村道雄『日本の歴史01 縄文の生活誌』二〇〇〇
(12)佐々木藤雄「自壊する考古学・成長しない集落論―「日本最古の石器発掘ねつ造」と『縄文の生活誌』・『国民の歴史』を結ぶもの」『土曜考古』二五 二〇〇一
(13)今村啓爾『縄文の豊かさと限界』日本史リブレット 二〇〇二
(14)近藤義郎「共同体と単位集団」『考古学研究』六―一 一九五九
(15)原秀三郎「日本における科学的原始・古代史研究の成立と展開」『歴史科学大系1 日本原始共産制社会と国家の形成』一九七二
(16)佐々木藤雄「水野集落論と弥生時代集落論―侵蝕される縄文時代集落論」『異貌』一四、一五 一九九四、一九九六
(17)都出比呂志『日本農耕社会の成立過程』岩波書店 一九八九
(18)広瀬和雄『日本考古学の通説を疑う』(前掲註3)
(19)佐々木藤雄「水野集落論と弥生時代集落論―侵蝕される縄文時代集落論」(前掲註16)
(20)小杉康「縄文時代の集団と社会組織」高橋龍三郎編『村落と社会の考古学』朝倉書店 二〇〇一
(21)M・サーリンズ、山内昶訳『石器時代の経済学』法政大学出版局 一九八四
(22)小林達雄『縄文人の世界』(前掲註6)
(23)西尾幹二『国民の歴史』新しい歴史教科書をつくる会 一九九九
(24)谷口康浩「揺らぐ「縄文文化」の枠組―縄文文化の範囲と段階区分」『白い国の詩』一九九九
(25)岡本勇「原始社会の生産と呪術」(前掲註8)
(26)佐々木高明『日本の歴史1 日本史誕生』集英社 一九九一ほか
(27)岡本孝之「東日本先史時代末期の評価」『月刊考古学ジャーナル』九七、九八、九九、一〇一、一〇二 一九七四 小林達雄『縄文人の世界』(前掲註6)ほか
(28)佐々木高明『日本の歴史@ 日本史誕生』(前掲註26)
(29)小林達雄『縄文人の世界』(前掲註6)
(30)大塚達朗『縄紋土器研究の新展開』同成社 二〇〇〇
(31)谷口康浩「揺らぐ「縄文文化」の枠組―縄文文化の範囲と段階区分」(前掲註24)
(32)佐々木藤雄『原始共同体論序説』一九七三 同「縄文社会論ノート」『異貌』五、七、八 一九七六、七八、七九ほか
(33)佐々木藤雄「和島集落論と考古学の新しい流れ―漂流する縄文時代集落論」(前掲註10) 同「縄文的社会像の再構成―二つの「新しい縄文観」のはざまで」『異貌』一八 二〇〇〇ほか
(34)アレン・テスタール、親澤憲訳「狩猟―採集民における食料貯蔵の意義」『現代思想』一八―一二 一九九〇
(35)佐々木藤雄「環状列石と縄文式階層社会―中・後期の中部・関東・東北」安斎正人編『縄文社会論』同成社 二〇〇二
(36)佐々木藤雄「縄文的社会像の再構成―二つの「新しい縄文観」のはざまで」(前掲註33)
(37)佐々木藤雄「水野集落論と弥生時代集落論―侵蝕される縄文時代集落論」(前掲註16)
(38)都出比呂志「日本古代の国家形成論序説―前方後円墳体制の提唱」『日本史研究』三四三 一九九一
(39) ベンジャミン・フルフォード『泥棒国家の完成』光文社 二〇〇四
(40)原秀三郎「日本における科学的原始・古代史研究の成立と展開」(前掲註15)


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