除霊 弘前市大森勝山遺跡現地説明会開催される

弘前市大森勝山遺跡現地説明会開催される

 弘前市教育委員会は平成20年10月17、18日、旧石器時代と縄文時代晩期の遺跡として知られる市内大森に所在する大森勝山遺跡(大きな地図で見る )の今年度の調査結果を一般公開しました。同遺跡は国史跡指定を目指し、一昨年度から3カ年計画で調査しているもので、今年度は環状列石の全面検出などを実施しました。
 その結果、環状列石は77基の組石からなり、直径49メートルから39メートルの楕円をなし、全国の同種の遺跡に比べても規模が大きいことが改めて確認されました。また、環状列石が造られた時期を直接的に示す遺物は出土しませんでしたが、周辺の出土遺物などから縄文時代晩期に造られた可能性が高くなりました。

岩木山地図
遺跡位置図(カシミール3Dより作成)

遺跡位置図
遺跡周辺地図(カシミール3Dより作成)  大きな地図で見る

岩木山遠景
遺跡から見た岩木山(カシミール3Dより作成)

●平成20年度 大森勝山遺跡発掘調査概要


1.発掘調査の目的
 大森勝山遺跡は、昭和34〜36年度(1959〜1961年)にかけて実施された岩木山麓に伴う発掘調査において、環状列石(ストーンサークル)と縄文時代晩期(約3,000〜2,300年前)の大型竪穴住居跡が確認され、後期旧石器時代(約13,000年前)のナイフ形石器等(平成15年度に県重宝指定)が出土し全国的に有名になりました。
 今回、遺跡を再調査することにより、大森勝山遺跡の国史跡指定を目指すとともに、将来的な整備・活用の役にたてます。

2.遺跡の立地
 大森勝山遺跡(大きな地図で見る )は、弘前市内大森集落の南西約2km、岩木山北東麓の大森川と大石川に挟まれた火山扇状地上に立地し、標高は140〜147mの位置にあります。現況は原野で周囲を防風林に囲まれているため、非常によい景観を保っています。

3.平成18・19年度発掘調査概要
 平成18年度は、環状列石の一部を調査し組石の遺存状況や位置が大きく変更されていないことを確認した。
 平成19年度ほ、環状列石全体と大型竪穴住居跡の一部を調査し、環状列石全体を46年ぶりに露わにし、組石の遺存状況や位置、環状列石の構築状況、大型竪穴住居跡の位置の確認を行いました。

(環状列石)
 台地の北東に位置し,規模は東西49m×39mであり、形状は東西方向に膨らむ楕円形であり、77基の組石から構成されています。環状列石を構築する際に、台地を一部(主に縄文時代に形成された黒土)削平した後に盛土造成がなされ、マウンド状にしています。その外周の傾斜部に組石が配置されています。また、各組石の形状については、環状に配石されたものや重ねるように配石されたものなどがあり、多種多様です。
 さらに、列石内部からは青森県では縄文時代晩期に多くみられる円盤状に加工された石製晶が多量に出土しており、中には組石内に組み込まれているものもあります。

環状列石
環状列石

(大型竪穴住居跡)
 環状列石の南西約100mの地点に位置します。規模は直径13.77mであり、形状はほぼ円形を呈し、面積は150.4平方メートルになります。昭和34年度(1959年)の発掘調査では全面が露わになっていて、発見当時は日本最大の竪穴住居跡として大いに注目を集めました。

縄文晩期住居跡
縄文時代晩期大型住居跡

(この住居跡、今からおよそ3000年前のものにも拘らず、発見当時、埋まりきらずに窪んでいたというから、驚きです!そのおかげで、場所がはっきりわかり、効率的な調査ができたということです。もちろん、今でも窪んだままです!!)

4.平成20年度発掘調査概要
(1)発掘調査期間 平成20年7月17日〜10月24日(予定)
(2)調査面積 約416平方メートル
(3)調査箇所 環状列石の周辺に5×5mの調査区を16箇所、低地部分に2×2mの試掘坑を4箇所設定しました。

遺構配置図
遺構配置図


5.調査成果
(1)環状列石の時期
 環状列石の周辺部を調査した結果、環状列石の構築時期が縄文時代晩期前半であることが確定しました。このことにより、大森勝山遺跡の環状列石は全国的に珍しいものとなりました。青森県内で確認されている小牧野遺跡(青森市)や大師森遺跡(平川市)の環状列石はいずれも縄文時代後期(約4000前)につくられたものです。
   
(2)埋設土器

 環状列石より西側の地点で土器埋設遺構が確認されました。この埋設土器は、小児用の墓あるいは再葬墓の可能性があります。使用されている土器の時期は縄文時代晩期の中頃になります。

(3)土坑
 環状列石のすぐ西側の地点では、環状列石と同時期(晩期前半)と考えられる土坑が1基確認されました。土坑の規模は直径130cm、深さ100cm程になります。この土坑の用途としては、貯蔵施設ないしは大型の柱穴の可能性があります。さらに南西側の地点では、土坑が複数確認されました。10基以上の土坑が重なり合っていて、大きなものの規模は長径200cm、深さ70cm程になります。これらは用途不明ですが、墓の可能性もあります。
  
(4)炉跡
 環状列石の周辺(東側、南側、南西側)で石囲いの炉跡が3基確認されました。環状列石と同じ時期につくられたと考えられるものであり、いずれも住居などに伴わない屋外炉になります。これらのうち最大のものは、直径170cm程の規模になります。

(5)土器捨て場
 環状列石より東側の斜面部分では、縄文時代晩期前半の土器が多量に廃棄された層が確認されました。壷、深鉢、浅鉢、台付浅鉢、皿、注口土器など様々な器形の土器が出土していますが、この他に土偶、石製品などもみられます。

(以上は、当日配布された弘前市教育委員会の資料を基に作成しました。記して、感謝申し上げます。)

現場の詳細な写真は、こちらからどうぞ!


 遺跡に一番近い集落は、大森集落ですが、ここで実は「コテ絵」で装飾された蔵を見つけました。コテ絵は「鏝絵」と書き、「左官が壁を塗る鏝で絵を描いたもので、漆喰装飾の一技法。古くは高松古墳、法隆寺の金堂の壁画にあり歴史は古い。また天平年間の立体塑にも見られる。 木で心柱を作り、その外側に荒土や白土にすさ糊を混ぜた材料で作るのが鏝絵の源流。 漆喰は、貝殻と木炭を重ねて焼いた灰で作る。」(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』) そうです。

大森集落コテ絵 

 青森市内では、明治時代からの度重なる大火や太平洋戦争中の空襲などによって蔵の多くは失われ、残っていても鏝絵による装飾が施されているものを実見したことはありません。かろうじて、昭和6年に建てられた旧国立第59銀行本店(現青森県立郷土館旧館)の内部装飾ーレリーフに見られます。津軽地方では、弘前市を中心に比較的多く見られるようです。この大森集落の蔵が好例です。青森県内の東部地区ーいわゆる南部地方には、非常に少ないようです。
 本格的な調査を待たずに消え去ろうてしている鏝絵の記録を少しでも後世に残したいと思うのは、私だけでしょうか?もし、ご覧の皆さんの中に類例をご存知の方がいらっしゃいましたら、掲示板に情報をご記入していただければ幸いです。

※暫定版ではありますが、無謀にも「青森鏝絵探訪」をオープンさせました。ご笑覧ください。


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