尾上山遺跡現地説明会資料


 平成13年7月14日(土)13時00分〜15時00分まで、深浦町尾上山遺跡で現地説明会が青森県埋蔵文化財調査センター主催で行われました。その際に配付された資料のテキスト部分を提供していただきましたので、紹介します。中でも、江戸時代の主要街道が発掘調査によって見つかったのは、青森県内ではここ尾上山遺跡が初めての例になります。  

はじめに

 尾上山遺跡は深浦町の南部、日本海に面した2段の海岸段丘上に位置し、北東には吾妻川が、南西には中沢川が西流し、日本海に注ぎ込んでいます。

 遺跡の発掘調査は大館地区一般農道の建設に伴い平成11年度から行われていて、今年度が3年目で最後の年となります。これまでの調査で尾上山遺跡は、縄文時代には狩猟場として使われ、平安時代には集落が営まれていたことが分かりました。また、江戸時代初期には津軽藩の参勤交代にも利用されていた、弘前城下から岩木山の北端をまわり西海岸を通り県境秋田県八森に至る「西浜街道」と考えられる街道の一部も見つかっています。


(遺跡から北側を望む)

 

検出された遺構と遺物

 この3年間の調査で確認された遺構は、縄文時代の落とし穴と考えられる溝状の土坑が6基、平安時代の竪穴住居跡は25軒見つかっています。平安時代の住居跡は標高60m前後の段丘上の平坦部分から4軒、谷を利用したと思われる堀跡に区切られた標高40m前後の比較的平坦な段丘上から21軒見つかっています。上下の段丘に挟まれた斜面部からは礫を充填した道跡が等高線に沿うように3条見つかりました。また、前年度の調査区の北端部からは両側に側溝状の堀跡を有する道路跡も見つかっています。遺物は平安時代の土器・土製品を中心に、縄文時代の土器・石器、近世の陶磁器等が見つかっていて、生業の一端をうかがうことのできる遺物も多数出土しています。

 

検出された遺構

溝状土坑

 落とし穴と思われる溝状の土坑は上の段丘面から4基、下の段丘面から2基見つかっています。このあたりでは今でもカモシカが調査区を横切ったりしています。縄文時代の人々もカモシカ等を捕らえるために落とし穴を仕掛けたのかもしれません。

 

竪穴住居跡

 竪穴住居跡は当時の人々が生活していた家の跡で、大きく分けると2つに分けられます。1つは竪穴住居だけのもの、もう1つは竪穴住居に掘立柱建物を併せ持つものです。竪穴住居だけのものもカマドの形態の違いから2つに分けられ、使用された時期あるいは使われなくなった時期に違いがあるものと考えられます。掘立柱建物を併せ持つ住居跡は、これまでに浪岡町や青森市周辺ではたくさん見つかっていますが、西海岸地方では鰺ヶ沢町外馬屋前田遺跡に次いで2例目の発見になります。用途については不明な点が多いのですが、鮭の燻製作りに使用していたという考えや、南部の曲屋の様な馬屋としての機能を有していたのではないかという考えもあります。

 

堀跡

 南側の大きな堀跡の全容は不明ですが、谷を利用しながら集落を区切るように構築された可能性も考えられます。構築された時期は堀底付近や覆土下層中から土師器や須恵器が出土していることから平安時代と考えられます。また、時期は不明ですが、堀跡が自然に埋まってある程度平坦面が作られた頃に谷津田として利用されていたことも分かりました。

 

道跡

 今年度の調査区(斜面部)からは礫を充填している道跡が3条見つかっています。この内の2条は途中で合流して1条になるものです。礫が充填されている部分の幅は40〜50pで、厚さは5〜10p程になります。道跡検出面の土層中には部分的に白頭山火山灰がブロック状に認められます。土層断面の観察からこの道跡は白頭山火山灰降下後に作られたことが確認できました。

 

街道跡

 今回見つかった街道跡は両脇に側溝状の堀跡を有する構造をしているのが特徴です。また、西側の堀跡(側溝)の底面には硬くなった部分が確認でき、堀底部分も道路として使用していた可能性も考えられます。この街道跡は文献史料や近世の絵地図等から西浜街道の一部と考えられます。遺物から見ても側溝状の堀跡底面付近から近世(肥前系)の茶碗が見つかっていることから江戸時代と考えていいものと思われます。江戸時代の主要街道が発掘調査によって見つかったのは県内ではここ尾上山遺跡が初めての例になります。

 

 出土した遺物

 縄文時代の遺物では土器片の他に石鏃(やじり)や石匙と呼ばれている万能ナイフ等が見つかっています。石鏃は獲物を捕らえるときに弓矢の先に付け、石匙は捕らえた獲物を解体するときに使ったものと思われ、落とし穴が作られ使用されていた時期のものと思われます。

 平安時代の遺物は土師器のほかに須恵器、羽口、鉄滓、刀子、土錘等が見つかっています。

 土師器は平安時代に使われた素焼きの焼き物で、坏や甕などがあります。坏は現在の茶碗や皿に、甕は鍋や釜などにあたるものです。

 土師器の中には塩を作るために用いられた製塩土器も数点見つかっていて、集落内で作った塩を周辺地域の交易品としていた可能性も考えられます。

 須恵器は窯で焼かれた焼き物で、尾上山遺跡では大甕が見つかっています。土師器より硬く耐水性にも優れていて、おそらく水等を貯蔵していたものと考えられます。青森県内では五所川原市の前田野目周辺から須恵器の窯跡がたくさん見つかっています。尾上山遺跡から見つかったものは、前田野目産の製品の他、お隣の秋田県から運ばれてきた製品が含まれている可能性もあります。

 羽口や鉄滓が見つかっていることで、遺跡内で鍛冶が行われていた可能性も考えられ、竪穴住居内から見つかった刀子と呼ばれている小刀も、ここの集落内で作られた物かもしれません。

 土錘は粘土で作られた素焼きの錘です。両端がややすぼまる円筒形をしていて、長軸の中心に穴があいています。網に付けて川あるいは海で漁労に使ったものと思われます。

 参考資料として現在使われている錘も一緒に展示していますが、ほとんど変わらないことが分かると思います。

 

まとめ

 今回の調査で尾上山遺跡からは縄文時代・平安時代・近世の遺構や遺物が見つかりました。特に道路幅という限られた調査範囲の中でたくさんの平安時代の住居跡が見つかったことは、ここが周辺地域の中心的な邑の一つであったと考えられます。また、生業に関連する遺物(羽口・鉄滓、土錘、製塩土器等)も出土していることで、生産や流通を考える上でも貴重な資料を得ることができたと思います。今後、これらの資料の整理作業を行い、当時の人々の生活の様子を少しでも明らかにしていきたいと考えております。

 最後になりましたが、長年にわたる調査にご協力を賜りました県農林水産部農村建設課、深浦町教育委員会、深浦町立深浦中学校、ならびに現場作業員の皆様方に心より感謝の意を申し上げます。


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