小牧野環状列石とランドスケープ


青森市文化財課 児玉大成


 最近、縄文人が山や太陽運行を意識していたとする研究が活発的になってきた。特に環状列石との関係が多く指摘がされている。青森県青森市にある小牧野遺跡は、縄文時代後期前半(約4000年前)の遺跡で、これまでに環状列石をはじめ、竪穴住居跡や土器棺墓、土坑墓群、貯蔵穴群、湧水遺構等も確認されており、縄文人の精神文化とかかわる多目的祭祀場としての性格が推定されている。
 遺跡周辺でランドマーク的な山は、東に八甲田山(1585m)、その手前に三角山の雲谷山(553m)、西に岩木山(1625m)、北西に馬ノ神山(549m)があるが、環状列石の周囲はスギの植林に覆われており、良好な景観を有しているとは言い難い。そこで今回は、環状列石の測量成果と景観シミュレーションソフトを駆使して、当時のランドスケープについて考えてみる。
 環状列石は、多量の河原石により直径35メートルの外帯・内帯・中央帯の3重の列石から成るほか、後に加えられた列石、組石もあり、当初の構築から最終形態に至るまである程度の時間幅があったものと思われる。環状列石は、石垣状に組まれた「小牧野式」と呼ばれる配列により、円形劇場のように立体的に造られており、見る者には迫力感を抱かせる。環状列石の広場中心には、1mをこえる大きな石があり、当時は象徴的に立てられていたと思われる。実は、この大きな立石と環状列石に付された特殊組石は、何らの方向性を意識して造られたものと考えられる。例えば、列石西側隅の第3号特殊組石は、中心の立石を通り東側隅の第9号特殊組石と対角のラインで結ばれる。ほぼ東西方向のラインにあたる。平面図上では西側方向の延長線上に岩木山の山頂と重なるが、実際には、手前の丘陵により隠れて見ることはできない。それでも、20m程のやぐらがあればその山頂部を望むことができるし、例え見えなくても方向ぐらいは把握できていただろう。列石北側の第6号特殊組石は、中心の立石と結んだラインがほぼ南北方向を示す。列石北西側の第2号特殊組石は、中心と結んだラインが馬ノ神山山頂の方向を示す。また、環状列石には、祭壇を思わせるような第1号特殊組石がある。この組石も中心の立石を通り第7号特殊組石と対応した関係をもつ。このラインは、第1号特殊組石から望むと陸奥湾および、西の津軽半島から東の下北半島まで一望することができる。第1号特殊組石が祭壇だとすると、祭りを司る人は、眼前には参加者を、その背景には周辺の集落をとりこんだ景観を見渡すことができたかもしれない。
 次に、環状列石の組石とは直接対応しないかもしれないが、列石中心からの太陽の運行をみてみる。山と太陽が重なるのは、八甲田山と冬至の日昇(7:30頃)である。日没には対応した山もなく、このライン上に対応した特殊組石もない。夏至の日には、日昇・日没と重なる山はないが、かつて観測した時には、中心の立石から環状列石内に建立されている馬頭観音碑の方向へと日が昇ることを確認している。(4:20頃)この馬頭観音碑は、江戸時代末期のものであるが、環状列石の一部を転用したものと考えられ、当時から立石として、この場所近辺にあったものかもしれない。もう少し日が昇ると(5:20頃)、第9号特殊組石の方向と重なる。また、秋分の日から、1週間ほど過ぎた頃に雲谷山から日が昇り(6:00頃)、岩木山方向へと日が沈む。逆に春分の日には、1週間ほど前に日が昇る。
 このように、小牧野環状列石は、山や太陽運行と部分的に対応したランドスケープとなっており、構築場所の決定や配石作業の際に、それらを意識していた可能性も考慮される。
 なお、調査の実施機関である青森市では、このような景観を考慮した環境を復元し、当時の歴史と自然の一端を肌で体験できるような「史跡公園」として整備することを目指している。

(これは國學院大学教授 小林達雄編「縄文ランドスケープ」 ジョーモネスクジャパン機構 定価1800円 に収録されたものです。)



▲夏至の日の出

▲秋分の日の出


▲中心から見た雲谷山と八甲田


▲中心と2号組石の延長線(馬ノ神山)


▲中心と7号組石の延長線(陸奥湾)

▲冬至の日の出


▲雲谷山の日の出


このページは、著者の児玉さんから資料提供を受けて作成しました。webに掲載するにあたっては、出版元の承諾を得てあります。記して関係者のみなさま方に感謝申し上げます。


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