道 の 話

児玉大成(青森市教育委員会)

 小牧野遺跡の平成10年度の調査で、野沢集落から環状列石(かんじょうれっせき)をつなぐ現在の道路のそばに、縄文時代(約4000年前)、平安時代(約1000年前)、そして近現代の道路が見つかりました(写真1)。
 おそらく現代のものは、ムラと馬の放牧場(ほうぼくじょう)を、平安時代のものは村と村とをつなぐ道路として使われていたことが考えられます。縄文時代のものについては、環状列石を作る際に、石を運んだ道路、またその後、環状列石と集落の行き来に使われた道路としての可能性が考えられます。なお、小牧野遺跡のまわりは、江戸時代から馬の放牧場として知られ、また、今回の調査で平安時代の集落跡も確認しました。縄文時代の道路は、青森県内では、青森市三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)や天間林村二ツ森貝塚(ふたつもりかいづか)から、それと考えられるものが見つかっており、いずれも土木工事が行われています。               大規模な土木工事が行われた古代の道路で有名なものに、ローマの道路が知られ、その一番古いものに「アッピア街道(かいどう)」があります。アッピア街道というのはローマから南のカプアのほうに走っていく道路で、今から2300年ぐらい前に作られたものです(写真2)。 都市内の道路がどうなっていたかはポンペイの遺跡が明瞭(めいりょう)にあらわしています。ポンペイは、ローマから南約200キロのナポリ近くにあって、ヴェズビオ火山というのが近くにあり、それが紀元前79年に大爆発を起こしました。その結果、二万人ほどの住民が住んでいた都市全体が火山灰に埋もれてしまったのです。発掘が百数十年前から始められ、今では観光客が2000年前の都市のありさまをほぼそのまま見ることができます。
 その都市には、街路(がいろ)があって、ちゃんと歩道がついています。また、真ん中に飛び石が置かれている場所もあり、車道や歩道だけでなく、雨水や下水を流すためにも使われていました(写真3)。
 「世界の道はローマに通ずる」という言葉が現在でも残っている様に、ローマの道路は現代と同じように、国道・地方道・里道の3つに分けられていました。その一部が現在でもローマ郊外(こうがい)で昔の舗装(ほそう)のままで現存し、自動車交通にたえています。
 今回検出した小牧野遺跡の道路も、縄文時代から平安時代、そして近現代と時代がとびとびですが、同じ場所が使われています。ローマの道とは、技術的にも距離的にも遠く及びませんが、古代回帰(こだいかいき)を思わせる意味では、どこか似ていませんか?

写真1:小牧野遺跡の道路状遺構
今なお残る道路(右側)とほぼ同じ方向に走っています。手前が最も低いところにある縄文時代の跡、そのとなりにあるのが平安時代、奥にみられるのが近現代の跡です。

写真2:今に残るアッピア街道の一部(撮影児玉)中央には石畳の車道があり、その両側には歩道が見られます。

写真3:ポンペイ遺跡の街路(撮影児玉) 大きな石が敷き詰められています。

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