「縄文時代のきのこについて」

工 藤 伸 一 (日本菌学会会員)



 秋もたけなわ、野生きのこの真っ盛りで、筆者の住む青森をはじめ、東北各地の野や山はきのこ狩りの人たちで大賑わいです。しかし、それとともに、毎年きのこによる食中毒事件が後を絶ちません。先日もクサウラベニタケや、ツキヨタケによる事件がありました。青森県内だけでもすでに十数人が食中毒を起こしています。これは、毒きのこを類似の食用きのこと誤ったことの他、「鮮やかな色のきのこは毒だ」とか「縦に裂けるきのこは食べられる」などの迷信が、相変わらず人々に浸透していることにも一因があると考えられます。
 さて、きのこはいつの頃から私達の食卓に上がり始めたのでしょうか。筆者は、たまたま数年間考古学関係の仕事に携わる機会があり、その折大変興味深い事実に触れることが出来ました。それは、今から4000年ほど前の縄文時代の遺跡から、形状が「きのこ」に似た粘土製の遺物が出土していたということです。

縄文時代の食生活

 縄文時代の食生活は、自然の産物を選択して採取するもので、かなり多彩であったことが判明しています。例えば、最近の青森県三内丸山遺跡の発掘調査では、イワシ、ブリ、マグロ、タイ、ヒラメなどの多彩な魚類の骨が、また、クリ、クルミ、ドングリなどの堅果類、イネ科植物であるイヌビエのプラントオパール(イネ科植物の珪質化した細胞の化石)が大量に発見されており、これらの魚や植物が貴重な食料となっていたと推測されています。このように野生の動植物が広く食料として利用されていたことからみて、森林の産物であるきのこも当時の人々によって利用されていても不思議ではありません。しかし、一般に食用として利用されるきのこは軟質で腐りやすいため、実物が遺物として残される可能性は極めて低く、実物の出土品によってその証明を行うことはほとんど困難なことと思われます。実際、当時の遺跡からはサルノコシカケ類のような硬質のきのこは出土していますが、軟質なきのこ類が出土した例は知られていません。

きのこ形土製品

 このような現状で興味深いのは、東北地方および北海道の縄文時代の遺跡からの出土品の中に、きのこに類似した形状の土製品が発見されていることです。これらは、一般に円盤形の裏面につまみ状の突起が付いており、形がスタンプに似ることから「スタンプ形土製品」の一種とされてきました。「スタンプ形土製品」にはスタンプ部分の表面に渦巻き模様などの線刻のあるものが多く、このように特に形状が「きのこ」に似ているものを、青森県やその他の一部の地方では従来から「きのこ形土製品」と呼び区別していました。
 しかし、「スタンプ」と「きのこ」の区別は明確でないばかりか、研究者によってはこの「きのこ形」に対して異論を唱える方たちもおります。例えば、単なるスタンプ説の域から出ないものから、表面が平滑なことから縄文クッキーを平面に仕上げるための用具説、柄の部分はつまみで傘の部分は蓋であり、形状が丸山形を呈するのは蓋の径より小きい土器にはすべて利用できるためであるとした土器の蓋説、土器を作成するに当たって土器の内側を滑らかに仕上げるための用具説などであり、「きのこ形土製品」の用途については考古学的には一致していません。筆者はこれらの説すべてを否定するものではありませんが、的を得たものとは思っていません。また、それとは逆に「きのこ形土製品」を「きのこ」とした説もありますが、傘の形状だけで考察しているため、無文のスタンプ状のものまでも「きのこ形」に含めて、「きのこ」と「スタンプ」を混同してしまっています。このように考古学的に「きのこ形土製品」を「きのこ」として考察されて来なかった、または混同されてきた原因は、形状が比較的単純で判断が困難なうえに、今まできのこの分類学的な検討がなされてこなかつたことに在るのではないかと思われます。
 「きのこ形土製品」と言われるものの出土例は報告書等によると、1999年現在、青森県で13遺跡58点、秋田県で10遺跡60点、岩手県で19遺跡51点、山形県で1遺跡2点、福島県で13遺跡24点、北海道で4遺跡4点で、合計60遺跡から199点が出土していますが、その形態は様々です。ただ、この数字は報告書から拾い上げもので、これらが全て「きのこ形土製品」かどうかについては筆者は実物の確認をしておりません。しかし、図から判断しますと、少なくとも福島県内の遺跡から出土したものの中には「きのこ」と判断できないものも含まれており、今後詳しく調査することによってはこの数は減少するものと思われます。「きのこ型土製品」はその後も東北各地から出土されており、東北地方北部を中心にして北は北海道南部、南は福島県北部にいたる広範囲に分布していることは間違いないと思われます。
 これらの「きのこ形土製品」を注意深く観察しますと、ある特定の「種」を意識して模倣したと考えられるものと、単に「きのこ」の一般的な形状を模倣しただけと考えられるものの二つのタイプがあることがわかります。前者は、そのつくりがとても丁寧であり、ひだや管孔の表現はないものの形状も極めてリアルです。また、後者は、そのつくりが一般に粗雑であり、「きのこ」であろうと推定できる程度です。この後者の存在が、今まで「きのこ形土製品」を「スタンプ」や「土器の蓋」などと混同させてきた原因と思われます。これら両者の時代背景は不詳であり、また、両者がすべて明確に区分できるものではありませんが、典型的な両者を区分して比較研究することは、これらの用途および変遷などを探るうえで重要なことと考えられます。

リアルなきのこ形土製品の例と推定されるきのこ

 筆者が今まで見てきた「きのこ形土製品」の中で、特にリアルなものと思われる数例について以下に紹介します。
 図1では傘の部分が径52ミリ、高さ10ミリ程の平たい丸山形で、表面はほぼ平滑、全体にやや肉厚、また、傘の下面はわずかに凹状で、ほぼ平面に仕上げられています。柄の部分は傘に垂直に取り付けられていおり、ほぼ円筒状で上下同大、頂部付近でややくびれています。
 図2では傘の部分が径48ミリ、高さ10〜20ミリ程の中高の丸山形で、片側は厚く、反対側は薄く仕上げられ、表面はほぼ平滑、傘の下面は緑が突出しているがそれより内側では平面に仕上げられており、縁部は薄くやや内側に巻くが全体に肉厚です。柄の部分は傘の厚い方に向かって多少斜めに取り付けられ、ほぼ円筒状で下方に向かって多少細まります。
 図3では傘の部分が径65ミリ、高さ25ミリ程のやや深い丸山形で、表面はほぼ平滑、傘の下面は深い凹状に仕上げられているため全体に肉薄、縁部はやや波打ちます。柄の部分は、ほぼ円筒状で下方に向かって細まり、基部はほぼL字型に曲げられ、長さは傘の大きさの割には短くつくられています。
 図4では傘の部分は推定で径約40ミリ、高さ22ミリ程のまんじゆう形で、表面はほぽ平滑で、下面は凹状に仕上げられているが中央部分ではかなり肉厚で、縁部は薄くやや内側に巻きます。柄の部分は傘に斜めに取り付けられ、ほぼ円筒状で下方に向かって細まります。
 図5では傘の部分が径59ミリ、高さ15ミリ程のやや低い丸山形で、表面はほぼ平滑、傘の下面は凹状に仕上げられており、中央から縁部にかけて薄くなります。柄の部分は、ほほ円筒状で、ほぼ上下同大で下方に向かってやや細まり、″し″の字形に屈曲し、全体として極めてバランスよくつくられています。
 図6では傘の部分は径40ミリ、高さ36ミリで縁が反り返ったやや浅い漏斗状をしており、肉厚で、傘の下面は柄に垂生します。柄の部分はほぼ円筒状で、多少湾曲して先細りとなっています。
 次にこれらの土製品について、きのこの種類を考察してみたいと思います。土製品からきのこの種類を推定することは大変難しいのですが、その際大きな手掛かりになるのはまずその形状です。図1〜6は、いずれも傘と柄の部分が明瞭に示されており、この形から、表現されているきのこはハラタケ目の種類と推定されます。ただ、図6については傘が盃形であることからアンズタケ目のきのこであることも考えられます。ハラタケ目のきのこはその外観的な形によって幾つかのタイプに分けられますが、各々のタイプは分類学的なきのこのグループ(科および属)とぁる程度関連しており、きのこの外観的な形からある程度その所属を推定することが出来ます。例えば、本郷次雄博士らはハラタケ目のきのこを、ウラベニガサ型、キシメジ型、カヤタケ型、ヒラタケ型、モリノカレバタケ型、クヌギタケ型、ヒダサカズキタケ型の7夕イプに分けていますが、キシメジ型であればキシメジ科のキシメジ属、ホンシメジ属など、イッポンシメジ科のウラベニホティシメジおよびその近縁種、モエギタケ科のスギタケ属、フウセンタケ科のフウセンタケ属などに所属することが考えられます。
 「きのこ土製品」が作られた縄文時代後期には、ブナやミズナラなどの冷温帯落葉広葉樹を中心とした森が広く分布していたといわれています。縄文時代の人々にとっては落葉広葉樹林に発生する種類が最も身近な存在であると考えられることから、土製品のきのこの種類を推察する場合にはきのこの形状ばかりでなくこの点も考慮する必要があると思われます。
 さて、図1では傘の部分が平たい丸山形で、全体にやや肉厚、また、傘の下面はわずかに凹状に仕上げられています。キシメジ型〜カヤタケ型の形状を示すこととその大きさから、ミズナラ林に多いヌメリガサ科の「サクラシメジ」様のきのこなどが考えられます。
 図2では柄が傘にやや斜めに取り付けられており、斜面に発生している状態を現しているのではないかと思われます。この土製品は傘がやや中高の丸山形で肉厚であり典型的なキシメジ型の形状を示すことから、キシメジ科のキシメジ属などのきのこを表していると考えられますが、特に傘の状態から青森県でミズナラ、カシワの雑木林に発生することが知られている「バカマツタケ」が強く連想されます。
 図3では柄の基部が意識的に曲げられており、このことは、倒木や枯れ木などに付着していたものを表現していると推測されます。傘の肉が薄く仕上げられており、比較的深い丸山形であることからキシメジ科の「サマツモドキ」のようなタイプのきのこに似ています。
 図4も前記と同様柄の基部が意識的に曲げられており、倒木や枯れ木などに付着していたものを表現していると推測されます。形態から傘が開く前の若いきのこを模倣したと考えられますが、キシメジ型の形状を示しており、見た目はキシメジ科の「シイタケ」かスギタケ属の「ナメコ」のような肉厚のタイプのきのこに似ています。
 図5では実物を見ていないものの、写真からだけでもリアルさが分かります。柄が傘にやや斜めに取り付けられていますが、材に発生しているものではなく、斜面に発生している状態を表現しているものと考えられます。傘が丸山形で柄が細く仕上げられ、全体のバランスがよく、ミズナラ林に発生する 「ホンシメジ」のようなシメジ属のきのこに似ています。
 図6ではリアルさにやや欠けますが、傘が肉厚で漏斗状をしており、傘の下面が柄に垂生することから、ハツタケなどのようなベニタケ科かアンズタケ様のきのこを思わせます。
 以上のようにリアルに表現された「きのこ形土製品」を見てみますと、ほとんどが良く知られた食用のきのこを強く連想させます。縄文時代においてはきのこも貴重な食料だったことが十分推測され、少なくともこの時代からきのこが食卓に上がったのではないかと考えられます。

世界におけるきのこ関連の遺物

 本題から少々横道にそれますが、世界におけるきのこ関連の遺物についてここで少し触れてみたいと思います。世界を代表する古代のきのこの作り物としては、中米マヤ文明の「きのこ石」が有名です。この「きのこ石」は紀元前1000年頃から中米のグアテマラを中心として栄えたマヤ文明の遺跡から発見されたきのこの石像です。火山岩などで作られた高さ約25〜50cm程度の大きさのもので、きのこのような石彫の下に獣や顔を彫っているものなど様々です。その用途については諸説がありますが、幻覚性のきのこを中心とする信仰に用いられたものと考えられているようです。また、この「きのこ石」について、グアテマラのカミナルフユー遺跡で発掘された出土品の調査では、せいぜい紀元前100年から紀元後100年頃のものと推察されています。
 きのこに関する遺物の例としては他に2例あります。一つは紀元79年に火山の噴火で埋没したイタリアのポンペイ遺跡で発掘されたきのこの壁画です。この壁画は紀元50年頃の物とされ、アカモミタケのようなきのこが描かれており、きのこの絵としては世界最古の物でしょう。もう一つは蒙古のノイン・ウラ遺跡から発見された綴れ織です。この中に織り込まれた唐笠模様は異論もあるようですがマンネンタケではないかといわれており、もしそのとおりだとしますと、綴れ織は紀元直前のものと推定されていますので、世界最古のきのこ模様ということになります。
 縄文時代の「きのこ形土製品」をこれらのものと比較してみますと、「きのこ土製品」は紀元前2000〜1500年頃のものであることから、きのこの作り物としては今まで一番古いマヤ文明の「きのこ石」さえも凌ぐ、世界最古のものであろうということができます。



「きのこ形土製品」の目的は?

 「きのこ形土製品」は何の目的でつくられたのでしょうか。「きのこ形土製品」の用途については今まで、縄文人の何らかの儀礼・祭祀に関わる道具や呪術具として用いられたと考えられていました。また、呪術や祭りの儀式に用いられた幻覚作用をおこすきのこを、後継者に伝授するために形として遺したものではないかという意見もあります。これらは話としては大変面白いし、古代においても、紀元前1000年頃から中米のグアテマラを中心として栄えたマヤ文明ではベニテングタケを神への貢ぎ物としていたと考えられています。また、インドのガンジス川流域に定着したアーリアン族に紀元前500年頃に芽生えたバラモン教の経典にある幻覚を起こす神の飲み物ソーマは、ベニテングタケであるというアメリカのきのこ民俗学者ワッソン氏の報告もあります。現代においても幻覚性きのこを利用する文化圏は三つ知られています。第一は中央アメリカのマヤ・アステカ文化圏で、ここではシビレタケの仲間である幻覚性のきのこがシヤーマンによって呪術などに利用し、第二はインドネシアのニューギニア島北東部の高地人で、オニイグチ科の一種のきのこなどを利用し、第三はシベリア東部の原住民で、ベニテングタケを利用しているといわれています。このように実際に幻覚作用を起こすきのこを用いて呪術や祭りの儀式が行われているところがあり、呪術具説はそれに影響された考察と考えられます。しかし、果たしてそうなのでしょうか。幻覚性のきのこを利用している地域は世界でも限定されたごく一部の地域であり、日本では確認されていないにもかかわらず、この説を縄文時代の 「きのこ形土製品」に当てはめるには少々無理があるように思われます。幻覚性のきのことしては「シビレタケ類」や「ベニテングタケ」が考えられるところですが、もちろん今のところ幻覚性のきのこと思われる土製品は見当たらず、その点からも呪術具説を採用するには無理があるようです。
 ワッソン氏は、世界には「きのこ好き民族」と「きのこ嫌い民族」が存在し、特にインド・ヨーロッパ系の各民族では「きのこ好き民族」と「きのこ嫌い民族」の何れかであると述べています。現在、縄文時代の遺跡の多い地方、主に東日本ではきのこ狩りは生活の一部となっていますが、弥生時代の遺跡の分布密度の高い地方、主に西日本ではきのこ狩りはレクリエーションの域を出ていません。このことは当然、きのこの発生量にも関係は多少はあるとみられますが、当時、日本列島に以前から住んでいた東北・北海道の縄文時代の人々は「きのこ好き民族」であり、大陸からの渡来人である弥生人は「きのこ嫌い民族」であったのではないでしょうか。「きのこ嫌い民族」はきのこに村する恐怖からきのこを聖なるもの、摩詞不思議なものとしてとらえているように思われ、そういう民族では祭祀や呪術の道具とすることは考えられますが、「きのこ好き民族」はきのこを貴重な食料としてとらえていることを考えますと、むしろ、きのこの豊作を祈っての祭事用つまり豊餞儀礼用の供物としての利用があったと考えられます。あまりリアルでない「きのこ形土製品」は、作りはシンプルであり、祭祀用具に見られるような飾り文様が見られないこと、一つの遺跡から多数出土することなどを見ても恐らくそういう目的でつくられた可能性が考えられます。
 しかし、リアルな「きのこ形土製品」に限って考えてみますと、それだけでは説明がつきません。前述したようにその形状は傘の下面の「ひだ」や「管孔」の表現はないものの、中には種までをも推測できるほどにリアルにつくられたものもあり、筆者が見た限りにおいてはこれらの作り物はいずれもハラタケ日のキシメジ科、イグチ科、ベニタケ科、アンズタケ目などの食用のきのこと思われるものばかりです。もし、単にきのこの豊作を祈っての豊饒儀礼用供物としての利用だけであれば、ここまで精巧に表現する必要はないでしょう。とすれば、他の利用方法があったのではないかと考えられます。
 「きのこ形土製品」等は縄文時代中期後半に突如として現れます。この時期はすでに地球の寒冷化が始まっており、生活も大集落から小集落へと変遷する時代であり、他の遺物を見ても子どもの手形・足形や三角形土製品、鐸形土製品など特異なものが多く出現し始めます。それまできのこを食料としていなかったものが、自然の恵みが少なくなりきのこを食料とする必要が出てきたものか、それともきのこを食料としていたが、何らかの社会情勢の変化できのこを「形」にする必要が出てきたものか出現の理由は謎ですが、前述のとおり少なくとも縄文時代において、きのこも当然貴重な食料になり得たことは推測できます。しかし、きのこの食毒の判断は現代の科学を持ってしても先人の貴重な体験によるところがほとんどです。このことは縄文時代においても例外ではなかったでしょう。きのこを食料としたことによって、毒きのこによる犠牲者もかなり出たのではないかと思われます。きのこは腐敗しやすく、植物のように長期にその場に在るものではありません。また、採取しても原形を止めさせておくことは不可能です。従って、貴重な体験から食用と判明したきのこを何らかの方法で残す必要があったのではないでしょうか。つまり、きのこをここまでリアルに表現する必要性があったのは、食べられるきのこの再現を試み、採集するときの見本とし、毒きのこによる中毒を防ぐ目的があったのではないかと考えられます。食用きのこの模型「きのこ形土製品」は、村人や家族たちがきのこを採集する際などの見本、特定の食用きのこに関する知識伝達のための道具(模型)、言うなれば縄文版「きのこ図鑑」としての意味があったのではないかと考えられます。果たしてきのこの模型で食用きのこを判別できるだろうか?と疑問を持たれる方もおられるでしょう。しかし、はじめに述べたように、現在まで伝わっている「鮮やかな色のきのこは毒である」とか「縦に裂けるきのこは食べられる」などの誤った迷信に比べたら、縄文時代の人々の方法(模型の作成)の方がより具体的で確実性があります。
 これらの出土品の時期は特に縄文時代中期後半から後期前半という紀元前約2000年から1500年までのわずか約500年の間に限定されております。また、リアルな「きのこ形土製品」は、青森県以外では秋田県の伊勢堂岱遺跡、大湯環状遺跡、岩手県の駒坂遺跡などからも出土しており、地域的には十腰内式土器文化圏と呼ばれている地域と一致します(図7)。
 このきのこ利用の高度な文化は縄文時代後期前半までという短期間で他の特異な土製品と共に消滅します。その理由については謎ですが、リアルな「きのこ形土製品」に限って考えますと、土製品以外に伝達の手段もなかったためその土製品のもつ意味が理解されず、後世に受け継がれなかったのかも知れません。その後の東北地方の縄文時代および弥生時代から「きのこ形土製品」の出土例はなく、次の出現は青森県で再び文化が発展し始めたと考えられる平安時代まで待つことになります。これらのことは、考古学的には長い人類史のほんの一瞬、しかも限られた地域での極めて狭い範囲の事例ですが、きのこ学的には極めて興味が引かれる出来事です。


 この論考は「菌蕈」2002年10月に掲載されたものです。著者で、きのこの専門家である工藤伸一さんから資料を提供していただきました。また、Web上で公開するにあたり出版元の了解を得てあります。記して、関係者の皆様方に厚くお礼申し上げます。



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