発掘秘話シリーズ9:ひたすら愚直に

春 日 信 興


 ここ2,3年は、八戸市における縄文草創期(爪形文、多縄文)の遺構や遺物の確認が多くあり、しばらく空白だったこの時期も少しも珍しいことではなくなった。発掘調査の世界では、何かひとつの先駆けの確認があると、それがあたかも呼び水のようになって、以後続々と出てくるということがあり、摩詞不思議なことと思っていたが、これからご紹介しようと思う爪形文土器もその例に漏れない話のひとつとなった。

 1981(昭和56)年、東北縦貫自動車道建設に伴って、八戸市是川字鴨平16-7他の山林地及び畑地に所在する「鴨平(2)遺跡」の発掘調査が4月から実施された。この夏は、猛暑の上に雨が多く灼熱と高温で青息吐息の難儀な調査であった。盛夏の頃には何十年ぶりかの皆既日食もあり、いろいろと思いでの深い遺跡となった。

 さて、爪形文土器の確認経過について記してみたい。鴨平(2)遺跡は、谷頭に近い小さな開析谷に面し、南東へ緩やかに傾斜している。遺跡の北側は、この谷に流れ込むさらに小さな支谷によって区切られるように台地の縁辺部を形成している。爪形文士器は、この縁辺部の小支谷が開析谷に合流する付近から出土した。

 この地点は、斜面の最低部に相当するので、もともと流れ込みで形成された厚い堆積土に被われており、地表面からは2.0-2.5m下で確認された。分布範囲は広くない。爪形文の包含層は湧水点に近いので湿度が高く、ベトつく土質で、往時であっても居住地点としては不適かと思われた。さらに想像を逞しくすれば、土器が遺棄された当時は水辺かと、思われる程であった。

 遺跡の所在する地域周辺は、南部浮石が20-30cmの厚さで堆積している。この地域では、南部浮石層下で白浜式の貝殻沈線文士器が出土することがあるので、調査範囲の全面で浮石層下まで確認を進めていた。そうしたところ、調査地点の南側低位部で縄文時代早期の中葉から前葉にかけて少数の土器片、石器片が出土した。さらに20cmほど下げて明褐色ローム層まで確認したが遺構、遺物等は見られなかった。一方、調査範囲の北側台地縁辺部は南部浮石下まで下げてなお黒褐色味が消えなかった。しかし、南部浮石層下かなりの堀り下げであったし、しぱらく遺構、遺物等の確認もなかったので、さらに掘り下げる必要があるのかどうか躊躇するところであった。また、現実的には調査日数の問題もあて、お盆明け(8月16日)には次の発掘地点に移動することになっており、かねて進行の督促を受けていた。そういう迷いがありながら、しかし土色の黒褐色味がどうにも気になって踏み切れず、上司には移動したことにしながら、幾人か作業員を回して堀り下げを継続していた。なかなか土の染みが消えなかったが、その時点で遺物の確認もないし、あと1日様子を見て終了にしようと思っていた矢先の8月25日一人の作業員が「これは、かべつち(壁土・□一ム土)かも知れませんが」と言って褐色な板状の土塊を持ってきた。それは、如何にも包含層のローム土と同色で、形状は酸化鉄が凝縮して形成される自然土塊によくにており、作業員ならずとも見粉うばかりの怪しげな物だった。しかし、如何にも脆弱な感じの土塊の真新しい割れ口には、多量の金雲母が見えていた。金雲母が階上岳近辺に確認されることと本遺跡周辺には見られないことも認識していたので、単なる土塊ではないと判断し、水洗いさせてみたところ紛れもなく土器片であった。直ちに現場を確認したところ数ケ所に同様な土器片が見られた。色調と脆弱さから一層慎重にジョレン掛けすることを指示して分布を把握したところ、さして広範囲ではないが土器の散布範囲は広がりを持ち、間違いなく遺棄された遺物の出土状況を呈していた。土器の文様は、爪形の刺突で統一されており、色調、胎土、器厚、形状等からみて同一個体と思われるほどに単調な出方をしていた。

 当初、私は寡聞にしてこの文様は白浜式の刺突文に似ているとしか思えなかったので、先に調査地点の南側低位部で南部浮石下から出土した沈線文土器、縄文土器、無文土器とも合わせて、貝殻沈線文系の土器だろうと考えていたが、器厚の薄さと焼成温度の低さは似ても似⊃かないものだった。気になって、調査メンバーの相馬信吉さん(現青森県埋蔵文化財調査センター)と工藤大さん(現青森県教育庁文化課)の三者で協議し、慎重に見極めようということになり、同僚の福田友之さん(現青森県埋蔵文化財調査センター)、成田滋彦さん(現青森県埋蔵文化財調査センター〉、鈴木克彦さん(現青森県立郷土館)、市川金丸さん(現三内丸山応援隊長)と多くの方々にみていただいて意見を伺った。その当時は、県内での初見でもあったので、どなたも確信はないものの、貝殻沈線文系ではないだろう、関東で見られる爪形文に近くないだろうか、という見解をいただいて緊張した。その時、たまたま慶応義塾大学名誉教授の江坂輝弥先生が来青された機会に鑑定していただいたところ、間違いなく爪形文士器であると認知されたのだった。

 以後、調査指導員の村越潔先生(当時弘前大学教授)から格別の指導を受けながら、慎重な発掘、念入りな図面作成、記録写真と続け、同時に土器の使用年代を確実にするために自然科学の分野の方々のご協力も得た。包含層の火山灰については、調査員の松山力先生(当時八戸高校教諭)、花粉分析については新戸部隆先生(当時八戸高校教諭)、螢光X線分析については三辻利一先生(奈良教育大学教授)、放射性炭素年代測定については木越邦彦先生(学習院大学教授)と多くの方々に応援していただいた。その結果、炭素の年代測定は資料不足で測定不能となったが、他の鑑定は何れもほぽ1万年前と判断され、この土器は年代的にも晴れて爪形文土器と認められたのであった。

 爪形文士器の出土地点から、10m四方はニノ倉火山灰層下まで全面発掘した上に、さらに10m広げて千鳥掛けに50%を同様に発掘したが、拡張地点からは遺構・遺物の確認はなかった。その時点で調査を終了した。報告書と若干異なるが全面的終了は、9月も末の頃であったと思う。取り上げ点数で、100片を越える土器片となった。

 発掘とは面白いものであると思っている。そろそろ打ち切ろうかな、と思っている頃に出てきて、終わってみると始めからそうなるべく運命められていたようにも感じられる。南部浮石層下の染みが気になって、終わろうか、終わろうかと思いながらも続けたのも、爪形文土器が「ここにいるよ、ここにいるよ、早く見つけてくれ」と言っていたようにも思われる。土の黒いうちは下げるのだという一つ覚えの愚直な発掘で、貴重な確認ができた思い出を綴ってみた。

 鴨平(2)遺跡で爪形文土器が確認されたのが青森県での初出であったが、その後、八戸市教育委員会文化課および博物館の発掘調査で同時期の遺構、遺物が続々確認されている。まるで呼び水の観さながらである。

 さらに、この土器にまつわる裏話をひとつ紹介すると、朝日新聞東京本社から取材があって、最後に記者が「トップ記事にする価値があるのか」と尋ねてきたが、私はそこまではいかないと思うと答えて、よその面にまわることになった。鴨平(2)遺跡の爪形文土器とそれを作った縄文人に悪かったかな、という思いが今でもする。


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