青森市近野遺跡の大型住居跡発掘の頃

         匿名次郎


 私が就職した最初の年に、それまで青森県では未発見であった縄文時代の大型住居発見の末席を汚したことがあり、今でもそのころの記憶がかすかに残っているので 、エピソードを綴ってみたい。

 昭和40年代後半から50年代前半にかけての青森県は、昭和52年に開催される「あすなろ国体」への準備の真っ最中であった。国体のメイン会場となる県総合運動公園の整備も急ピッチで進められ、また、それに先立つ発掘調査も大規模に行われていた。昭和48年の建設予定地内分布調査を皮切りに、毎年のように発掘調査を実施していった。このような中、昭和52年度調査予定地は林間プレイロット建設予定地であり、その一角に平安時代の竪穴住居を数軒上屋復元した「遺跡コーナー」を設置する計画であった。しかし、遺構確認作業を行うと、建設予定地全域にわたって縄文時代の遺構が存在することが判明したため、「記録保存」としての調査から、「遺跡保存と活用」のための調査に切り替えた。

 7月上旬から各遺構の精査に入ったが、その中で後に第8号住居跡と呼ぶこととなった、住居跡の半円状の南壁プランがうっすらと見えた。その時は「ちょっと大きいなあ」と、思ったぐらいで、後に長軸が20m程にもなろうとは予想もしなかった。東壁のラインを追いかけていたキャップのXさんが、「この壁、北の方にまっすぐ続いていくぞ。おかしいな?」と、つぶやいていた。誰しも、これまでは直径4m位の円形の竪穴住居が一般的な縄文時代の住居であるとの頭があるので、4mを遙かに越えて、一直線に伸びる東壁のラインに我が目を疑っているのである。反対側の西壁のラインは、残り具合があまり良くなかったので、一部しか見つけられなかったが、東壁に対応する部分が確かにある。これは間違いなく、これまで青森県で発見された縄文時代の住居跡では最大級のものになるかもしれないと予感した。それを裏付けるかのように、住居跡を覆っていつ土をどけて床面を出すと、直径が普通の4〜5倍もある茶色をした円形の柱穴が次々と現れてくるではないか。また、中心線上には火をたいた炉跡が5カ所も見つかり、間違いなく1軒の大型住居跡であると確信した。だとすれば、青森県内では弘前市大森勝山遺跡の大型住居跡(縄文晩期)に次ぐものであり、縄文時代中期のものとしては青森県内初の発見となる。しかし、まわりのみんなは意外と冷静で、初の発見の感動を内に秘めながら、黙々と調査を続けていた。

 この住居跡の大きさを実感したのは、柱穴を掘ったときである。普通の住居だと、柱穴は直径20cm位であるから、園芸用の移植ベラで掘るのだが、このときはそれだと能率が悪く、柱穴の底にたまった排土を人が柱穴の中に入りスコップで掻きだしたのである。案内人の発掘経験の中で、柱穴をスコップで掘ったのは、後にも先にも、この時だけである。今の若い人たちに、この話をしても容易には信じてもらえないのである。

 最終的には、推定長軸が19.5m、短軸が7.0mの小判形をし、推定面積が約119平方メートルであった。畳敷きにするとおよそ72畳分であるから、八畳間が九部屋分の広さである。この大型住居が何に使われたのか、定説はないが、共同作業所あるいは集会場として使用されたのではないかと考えられている。 


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