発掘秘話シリーズ6:米軍三沢基地内における発掘調査よもやま話 

                        青森県 東北町 田中 寿明


 一昨年、三沢市米軍基地内において発掘調査が実施され、縄文時代早期、弥生時代、平安時代の集落跡が確認された。現在、M沢市の長O氏が整理奮闘中である。小生もこの調査に参加したが、各時代の遺物の多さには驚きました。特に早期と弥生の遺物だが、三沢と言えば早期=早期と言えば長O氏=長O氏と言えば早期・・・・。それだけ三沢市内に、早期の遺跡が集中しているということかもしれないが、当たる人には当たるものである。(当然のごとく、当たらない人には当たらないが・・・?!) 

 それはさておき、米軍基地と言えば、言わずもがな、アメリカである。日本であって日本じゃない。街並みも、歩く人も、走る人も。(一番格安な海外旅行をしたい方は、是非三沢基地へ!充分外国を味わえます)車は常に時速30Km。違反3回で永久追放である。厳しいようだが皆きちんとルールを守るし、なによりゆずり合いの精神である。信号が赤でも、車が来ない場合は、左折してもよいのです(こういうところは日本も見習うべき!)。話はそれましたが、調査区は滑走路の真下というか切れ目というか、離着陸するパイロットの表情が分かるほどの距離で、とにかく飛行機の轟音のけたたましさには毎日ノイローゼ気味になり、バズーカ砲があれば、空砲でも飛行機に向けて打ちたい気分になります。調査区は、普段一般の人たちが立ち入れないような所で、たまに軍人さんが見学に来るのですが、興味深げにと言うよりは、不思議そうに見て回ります。出土した土器が数千年前のものと説明しても、簡単には納得してもらえず、ひどいときには怒り顔で、ペテン師呼ばわりでもしそうなほどです。皆が皆そうではないのですが、考えてみればアメリカの歴史は、せいぜい数百年位のものなんだよなー・・・と一人で納得してはいましたが?。

 米軍基地内の発掘調査は、全国的にもあまり例がなく、青森県においては(三沢基地だけだが)、昭和61年に、青森県埋蔵文化財調査センターが、小田内沼(1)遺跡、63年に下タ沢遺跡の調査を行っている(現A森市埋蔵文化財対策室室長 遠D氏がBoss)。この時の調査は、高さ3m位のフェンスに囲まれた調査区に、大型バス数台に皆乗り込み、入退場以外は入り口はシャットアウト。あたかも強制収容所のようでした。

 それ以外の調査では、57年に、メリーランド大学三沢校のPーター・カンケル氏等を中心とする米国チームとM沢市教育委員会を中心とするボランティアグループにより、フェンスの拡張工事に伴い、小山田遺跡の試掘調査が行われている。また58年に、通称「ゾウのオリ」と呼ばれるレーダーの脇の姉沼(3)遺跡を、またも日米合同で調査を行った。この時も、Pーター・カンケル氏等のチームと日本側は、上北考古会に続けとばかりに結成した「しじみ会」(OH!なんというアカデミックな名前!)。メンバーは、埋・文センター 福D氏、同 N田S彦氏、同 O田川氏、M沢市教育委員会 長O氏、同 T島氏、東H町教育委員会 F屋敷氏、野H地町のやくざな料理人S川氏と私ーちめ店主でありました。その時のエピソードを二、三紹介したいと思います。

 仲間達の写真その当時は、レーガン大統領が来日するということで、旧ソ連軍戦闘機の威嚇に対して、連日スクランブルがかかり、サイレンとともに爆音を鳴り響かせる毎日で、基地内には異様な緊張感が漂っていました。ましてレーダーサイト周辺は、カービン銃を肩に提げたMPがウロウロ、ウヨウヨ。そんな中で我々は、時折真上を通過する戦闘機を仰ぎながら、人里離れた森の中で土まみれになっていました。そんなある晴れた日、ある人は移植ベラ、ある人はジョレン、またある人はスコップを手に作業をしておりました。その時であります。「ホールド・アップ!!」の声とともに迷彩色の軍服を着たMP二人が、カービン銃の銃口を向けながら林の中から出てきたのです。銃を見ると傷だらけで、いかにも、たった今戦地からやって来たと言わんばかりに、引き金に指をかけているのです。この突然の状況に、一同なにがなんだか分からず、ただ手を挙げてオロオロするばかりでしたが、そんな中、百戦錬磨の勇猛果敢な野H地町のやくざな料理人S川氏は、MPに向かい「ウイ、アー、ジャパニーズ、アーケオロジー、チーム!アッハ〜ン?(この時、両手は手のひらを上に向けて、両肩を軽くしゃくり上げる。)」と必死に説明しましたが、聞き入れられず、第二声の「ゲッ・ラウ!(出ろ)」の指示に従い、一列にゾロゾロと林の外に出ました。林の外には軍用ジープが止めてあり、MPがなにやら無線連絡し始めました。不安感漂う中「基地の中といっても所詮日本じゃないか」と安易な気持ちでいましたが、「ヒュン・ヒュン・ヒュン」とアメリカ映画で聞き覚えのあるサイレンの音とともに、パトカーが二台、すごい勢いでやってきました。安易な気持ちは一瞬にして払拭され、「我々は、一体どうなるの!?」と皆青ざめていましたが、二台目のパトカーから一人の日本人が降りてきて「どうしました?」と声を聞いたときは、思わず抱きしめたくなりました。その後、事情を話し、色々と連絡を取ってもらったところ、基地側の事務手続きのミスと分かり、一件落着。明くる日、何事もなかったかのようにまた調査をしていると、ガサガサッと林の中からまた、かのMPが現れました。我々はまた仰天しましたが、「ハ〜イ」と今度は銃を下ろしニコニコしながら出てきました。「てめー、ビックリさせんじゃねーよ!」と思いながらも、顔はニコニコさせて、同じく「ハ〜イ」と答えてしまいました。MP二人はその後、興味があるのか暇つぶしか、ちょくちょく遊びにやって来ました。

 調査は無事終了し、日米合同で打ち上げパーティーをやろうということになりました。色々な関係機関から便宜を図っていただき、基地内にある「将校クラブ」(基地内では格式のあるレストラン兼社交場)でやることになりました。会場は、サミットでもやるような大きな長いテーブルに、日本側と米国側とそれぞれ十名づつ位に分かれ、晩餐会が始まりました。我々の後ろには、ウエイトレスさんが、一人に一人張り付くようにズラーと並び、その中で、各々自己紹介をしましょうということになりました。そして、尚かつ自国語以外の言葉でやりましょうということになり、米国側は、英語以外の言葉を使わなければならないので、フランス語、スペイン語、日本語等で始まりましたが、我々は、日本語以外はまるでちんぷんかんぷん。まして、突然の自己紹介ということで、頭の中は英語の教科書がグルグル。皆それぞれ「ハロー、マイ、ネーム、イズ・・・・」に始まる稚拙な英語をオドオド言うだけでしたが、そんな中で、堂々と胸を張って、声高らかに「ニーハオ!・・・」という御仁が現れました。なんと、埋・文センター N田S彦氏でした。そうでした、かの御仁は、中国旅行のために日夜、NHKのラジオ講座で猛勉強中だったのです。一通り中国語で挨拶し、イスに腰掛けたその時です。後ろに立って控えていたウエイトレスさんが、猛然と走り寄り、なにやらものすごい勢いでN田氏に話し始めました。実は、このウエイトレスさんは中国人だったのです。よほど中国の言葉に飢えていたのか、終始嬉しそうに話しかけていました。後でN田氏に、「何を話してたの?」と聞くと、「全然分かんなかった。」と申しておりました。その後N田氏は、無事中国旅行をして帰って参りました。

 記憶を頼りに書き綴りましたが、何しろ十数年前のことなので、少々食い違う部分や、若干脚色した部分もあろうかと思いますが、多分、この通りだったと思います。出演した皆さん、失礼がありましたらゴメンナサイ。苦情は受け付けません。


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