市浦村十三湊遺跡発掘調査体験談

   鈴 木 和 子


 私が初めて十三湊遺跡の発掘調査に参加したのは、1991年の10月でした。その年の調査は詳細分布調査で、十三湊遺跡や福島城跡をくまなく歩き、どの場所に、いつの年代の遺物がどれくらい落ちているかを調べ、記録していくものでした。この年の調査はその後に続く十三湊遺跡発掘調査の大きな第一歩となったのですが、当時学生だった私は、そんなこととはつゆ知らず、とにかくたくさんの遺物が落ちていることに驚き、感動し、そして言っていることがさっぱり分からない津軽弁と格闘し、ただただ楽しい毎日を過ごしました。

 続いて1993年・92年と試掘調査や発掘調査、そして航空写真や地積図の調査が行われました。最初の頃は、地元の風土も何もかも知らない事ばかりで、風上に排土山をつくり、毎日頭や顔、体中に砂をかぶりながら調査をしたり、掘っても掘っても砂で埋まっていく遺構をみながらイライラしたりと、いろいろな事がありましたが、この調査の結果、十三湊が大規模な港湾都市遺跡であることや、今現在も、地中に中世都市がそのままの姿で眠っていることなどが分かってきました。

 その後調査は、地元の市浦村教育委員会と青森県教育委員会に引き継がれ、私も何故か地元愛知県を離れ青森に暮らすこととなり、これまで8年間調査に携わってきました。その間、安藤氏や家臣団館の堀後が見つかったり、当時のメインストリートが見つかったりと、毎年新しい発見が続いています。13世紀前半の港町から出発し、15世紀には土塁を挟んで北に安藤氏館や家臣団館を配置し、南に町屋を整備した港湾都市に発展したことなども調査によって分かってきており、「幻の港町」といわれた十三湊遺跡も徐々にその姿を現し始めています。

 20代も終わりに近づいた今、ふと振り返ると、私の20代は十三湊遺跡なしでは語れないものだということに気付きます。まさに、あの1991年の調査が、私が中世考古学を志す第一歩であり、私の『二十歳の原点』だったのです。

 そして今思うことは、これからも時には親子のようにケンカもしながら作業員さんたちと発掘を続け、私がいろいろなことに感動を覚えた十三湊遺跡をより多くの人に知ってもらいたい、見てもらいたいということです。

 皆さんも機会がありましたら、ぜひ十三湊遺跡を見に来て下さい。


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