六ヶ所村幸畑(7)遺跡発掘調査体験記

大 湯 卓 二


 平成3年4月、県立郷土館から青森県埋蔵文化財調査センターに転任し、12年ぶりに発掘調査をすることになった。不安を感じながらも、その年の5月からさっそく六ヶ所村に赴き、家ノ前遺跡(縄文・弥生・平安時代)の発掘調査に従事、7月1日からは幸畑(7)遺跡の試掘調査を実施した。 

 幸畑(7)遺跡は、六ヶ所村鷹架沼の南岸に位置し、面積は14.5haにも及ぶ広大な範囲を有していた。しかも、段丘は谷間を形成し、地表には茅と笹が繁茂し、ジャングルさながらの状態であった。

 調査は、草刈り機を用いて茅・笹の除去から始った。もちろん遺跡対象地域をすべての笹・茅を刈るわけではなく、試掘坑の対象地域だけでよいのであるが、グリッドを設定する際には見通せる範囲の草刈りをしなければならなかった。

 当初、調査は、長瀬氏という若くて真面目な職員が当たった。彼は、この14.5haという気の遠くなるような面積に果敢に挑み、笹と茅の格闘から、さらに碁盤の目のグリッドを等間隔に設置し、試掘坑をひとつひとつ潰すという方法をとった。しかし、この遺跡は縄文時代の土器や石器がパラパラと見られる程度で、遺構が検出されず、台地を占有していた縄文人はどのあたりなのか皆目検討がつきにくい状況にあった。

 そういった中、調査が開始され1ケ月ほど経った8月12日、ちょうどその日は盆休となる前日だった。作業員がおしげもなく「石が出たよ」と教えてくれた。その石器がまさしく後期石器終末期の尖頭器であった。何げなく示された石器は、縄文の石器と異なり、層位もローム層に接して出土したのである。この石器が出土する数時間前まで長瀬氏はロ一ム層の掘り下げにこだわり、試掘調査であってもはロームを下げることが必要だと説いていたのだから実に不思議なタイミングたった。その後、我々は出土した尖頭器の周辺をぎこちない手つきで慎重に広げたのである。

 出土地点は、標高38mほどの段丘の谷間に位置し、約1万2千年前の千曳浮石層の下層からの出土であった。その結果、いわゆるゆる長者久保の円鑿1点、打製石斧3点、片面尖頭器1点、彫器1点、掻器5点、円盤形石核1点、未製品石器2点、礫石器2点、剥片97点、チップ107点が出土したのである。

 この遺跡の偶然とも言える出会いは、出土した範囲50平方メートルほどに止まり、周辺地区からはいくら拡張を試みてもその他の石器は1点も出土しなかったのである。当時100名を越える作業員を総動員したこの試掘調査において14haのうちほんの50平方メートルの範囲のみに集中して発見されだというのは驚きとも言える。その確立は2800分の1ということになろう。つまり、旧石器の出土は予想されない偶然とも言える発見ということであった。

 さらに、不思議に思っているのは残された遺物の中で未製品石器と名付けた石器が、砂質安山岩とも言うべき、加工には不適格な石を用いていた。何故にこのような石材を用いて打製石斧を作ろうとしたのか、なぜか納得できないものを感じた。この石器は・長者久保型の打製石斧の特徴とされるアヒルの嘴状を作り出そうとしたものであろうが旧石器人は、優れた石器製作技術を有し、石材選びの天才的感覚があっただろうに調整加工が困難な石質を選んだということに疑問をもつ。案の定、これらの石器製作は失敗に終わっている。従って、私は、この石器を未製品石器と名付けたのである。ただ、これも私の勉強不足からの疑問であることも付け加えておきたい。

 ※報告書r家ノ前遺跡・幸畑(7)遺跡2』青森県教育委員会1993


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