発掘秘話シリーズ7: 三内丸山遺跡の思いで

ー昭和51年の調査(なにも騒がれなかったあの頃)ー

成 田 滋 彦


 いまや全国的に有名になった三内丸山遺跡は、過去において慶応大学・青森市教育委員会・青森県教育委員会が、発掘調査の規模に差はみられるが調査が行われてきた。
 今回、報告するのは、私が調査した昭和51年の夏の調査について、思い出と調査内容を報告します。
 遺跡の名称は、三内丸山(2)遺跡と呼称されていました。三内丸山(2)遺跡は、平成6年7月まで呼称され、発掘調査の進展に伴って、現在は三内丸山遺跡と統一されています。 ちなみに当時から、三内丸山遺跡の(1)と(2)の遺跡の境界は明瞭でなく、何故に分離したのか、多くの研究者から疑問の声はあがっておりました。
 ところで、昭和51年といえば、三内丸山遺跡の南側の近野遺跡の調査(現在の総合運動公園)を実施しており、当時の原因者が発掘調査に理解が無く、こまぎれの調査で苦労した事も思いでのひとつです。
 さて、調査部分は現在の県総合運動公園に伴う西駐車場の建設に伴う調査であり、そのの結果、縄文時代中期後葉の列状墓を検出しました。
 墓は南側(南頭位)・北側(北頭位)に列状に土坑墓が整然と配置されており、壁及び底面のつくりが堅致であり、土坑墓の構築がりっぱであった事が記憶にあります。
 このような列状の墓は、三内丸山遺跡の南側丘陵のみに存在すると考えられておりましたが、平成4年度以降の発掘調査で、台地全体に大規模に配置している事が判明しています。
 ところで、同一時期に列状に構築している点や、南頭位と北頭位と相違する埋葬方法などについて、どう理解するかという点ですが、性別差・別の集団・出自のちがい・よそもの等など考えられます。しかし、今でも私はこの謎について、問題が多く解明しておりません。
 なお、発掘調査は東北学院大学の学生も参加し、にぎやかに調査をおこなった事も懐かしい思い出である。
 また、このような貴重な遺構が何故に保存できなかったのかというと、当時の調査では遺跡の保存はタブー(この傾向はいまだ変わっていない)であり、失われていく遺跡を調査者は目に焼き付け、心に刻み遺跡を後にしたものです。

ー昭和51年の夏は、なにも騒がれなかった暑い夏でしたー


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