発掘秘話シリーズ3 :平内町大沢遺跡

  松谷泰英(花嫁募集中)


 海岸沿いの道路際に居並ぶ赤黒い巨大な楕円のしみと興奮した顔で叫ぶK林氏の赤ら顔が妙に似通ってみえた。長径で3〜4m程度の楕円形のプランが約700mほどの間に10基ばかりも見られたであろうか。その間を忙しなく動く重機の振動が体に伝わってくる。発掘調査に携わって数年になるが、今までにみたどんな遺構のプランとも異なる異様な赤黒いしみ。かたちそれ自体は大きめの土坑とたいして変わることはないが、同様の状態で赤黒く居並ぶとその異質さは見る者にぬぐい去れない大きな印象を与える。これらをみた瞬間道路の拡張により消えゆく遺跡を何とかしなければならないという使命感よりも「掘ってみたい、なかをみたい。」という衝動的な思いのほうが強かったと思う。発掘調査に携わってきた人間であればあるいはみな同じ感覚をもつのではないか。しかし、現実的な問題はあった。遺跡は不時発見であり、その対応が時間的にも予算的にも全く余裕がない状態であることがそれである。とりあえず作業中のK建設の現場監督氏に状況を説明し工事を中断してもらった。その後、親元である県土木部と協議を行い3週間という貴重な時間をいただいた。3週間でやれるところまで記録をとるということになったのである。たまたま我々がその時行っていた発掘調査の調査原因が同じ夏泊公園線の改良事業であることも手伝って、「おまえなんとかしろよ」というM氏の鶴の一声により今やっている発掘調査を中断して突貫工事的な調査に乗り出すこととなったのである。

 実際、調査には錚々たるメンバーが揃っていたので悪条件の割には不思議と焦りや不安といったものはなかった。H戸市職員から転職したF田氏、N辺地町の極道板前S川氏、T北町の遊び人マスターT中氏に先程の北B氏や地質学のK村先生がメインスタッフとして調査に参加し、また、F屋敷氏をはじめとする東H町職員の方々が応援に駆けつけてくれたのである。工事を中断した短期間の内では完全な調査は無理なのだから、せめてこれまでに青森県ではほとんど報告例のなかった製塩遺跡の遺構をひとつでもいいから解明し記録しようということになった。経験の少ない私としてはこれだけのメンバーが追い込まれて半ばやけくそになりながらも初めて取り組む遺構を楽しんで精査しているのがとても印象深かった。大沢遺跡の遺構は大きく分けて2種類で、ひとつは全長4〜9mの楕円形の掘り込みに礫を配して構築した窯跡と、もうひとつは方形の竪穴状遺構もしくは径70〜80?p程度の楕円形の土坑で礫と土製支脚・製塩土器が多量に出土したいわゆる製塩炉と呼んでいる遺構である。窯跡は径20〜30?pの礫を芯材とし、セメント状の材を塗りつけて構築したと思われるもので、その考えられる用途から窯というよりは釜という表現が適当になるのだろうか。崩落した築材は非常に堅く精査は難航を極めた。掘るというよりも「のみ」と「げんのう」で砕いて取り除くという作業が延々と続き、時間だけが刻々と過ぎていくような感じである。それでも何基かの窯跡や製塩炉を掘り上げ、また、多量の製塩土器や土製支脚を取り上げた。このうち、炉跡は出土遺物や火山灰等からおよそ10C中頃のものと推測されたが、窯跡については最後まで構築・使用年代が求められなかったことが残念である。

 調査が終了した今、かつての発掘現場は少し広くなった道路として横たわっているが、もしも夏泊半島にいくことがあれば、興味のある向きはぜひたずねてみてほしい。白砂キャンプ場の砂利の浜辺を鼻繰崎に向かって北西方向に歩き自分の頭が道路よりも低くなったころに、海を背にし、道路を支えている土の壁面をみると、今でも窯跡の断面がひっそりと顔を出しているのに出会えると思う。


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