「文化遺産は誰のものか?」、この古くて新しい命題は、いつの時代も多くの識者によって論議されてきましたが、今日では、ほぼ、文化遺産は「地域住民のものである、そうでなければ意味がない」という意見に収束しています(小山修三「文化遺産はだれのものか」「三内丸山縄文ファイルNO.54」2000年)。このことを埋蔵文化財に限ってみても、関係者を含めた一般の方々にも大筋で認めていただけることではないでしょうか。したがって、「埋蔵文化財は地元住民のものである、そうでなければ意味がない」と言い換えができます。

 ところで、千葉県佐倉市に所在する国立歴史民俗博物館(以下、「歴博」と略す)は、国の共同研究機関として著名な研究陣を擁し、これまでも大きな研究成果をあげてきました。青森県の関係する部分では、まず、市浦村十三湊遺跡の研究成果があります。それまで何度か調査が行われましたが、闇に包まれていた十三湊遺跡研究に画期をもたらしたのは、1991年から1993年まで行われた歴博による調査です。このときの調査によって、十三湊遺跡は大規模な都市計画をもった中世の港町であることが明らかにされ、これがきっかけとなって、地元市浦村教育委員会と青森県教育委員会による継続的な発掘調査が行われるようになりました。歴博による発掘調査の成果は、「国立歴史民俗博物館研究報告第64集 青森県十三湊遺跡・福島城跡の研究」(国立歴史民俗博物館 1995年刊行)という立派な著作物として刊行され、研究者はもとより、一般の歴史に関心のある方々に活用されています。発掘調査の出土遺物や記録類は、地元市浦村教育委員会に考古学の専門職が配置されたことに伴い、すべて地元に返還され、保管・活用されています。一部の出土遺物は、歴博の常設展示に村から貸し出され、佐倉市においても市浦村十三湊遺跡の成果は見学できるようになっています。市浦村教育委員会による発掘調査は継続して続けられていますから、最新情報は歴博にも伝えられ、歴博の常設展示にもフィードバックされるような仕組みになっているそうです。これは先の「文化遺産は地域住民のものである」という考え方の理想的な姿ではないでしょうか。また、文化遺産は地域住民が専有すべきものでもないので、広く国民に公開・見学できるようなシステムになっていることも高く評価できます。

 中央の大学や研究機関による地方遺跡の発掘調査の出土遺物は、以前は地方にほとんど返してもらえず、それぞれの大学・研究機関の「お蔵」に眠り続ける、といったケースが多かったようです。しかし、最近では先の歴博の十三湊遺跡出土遺物の例や、1980年代後半の早稲田大学による蓬田村蓬田大館遺跡出土遺物の地元返還の例などに見られるように、少しずつではありますが、「中央の研究者」の出土遺物に対する意識の変化が感じ取れます。今後は返還を受けた地元教育委員会がそれらをいかに活用していくかが問われる時代になっていくと思います。

 さて、話を先の歴博に戻しましょう。歴博が青森県で行った成果のもう一つの例に天間林村森ケ沢遺跡の発掘調査があります。発掘調査は、1993年9月に歴博が主体になり、青森県・岩手県在住の研究者有志等が「手弁当」で応援するという「中央・地方合同発掘調査」体制で行われました。調査の結果、目標とした5世紀頃の墓地と豊富な出土品が発見され、1ヶ月にも満たない調査期間の割には、多くの成果があがった「効率の良い」発掘調査でした。この概要は、早速、翌年に調査概要としてまとめられ、公表されました(以下にその一部を転載)。


主な調査成果と研究展望

遺構・遺物からの復元
 今回の調査ほ,5世紀あるいはそれを若干前後する時期の墓と奈良時代・平安時代の集落の検出が主な成果である。土坑墓は19号墓を含めて20基を発掘し,未調査地や破壊された可能性を考えると30数基で構成されていた墓地となろう。墓域の認定は,これらが10号墓を中心にした径14メートルの範囲内にあるだけでなく,中央部の墓の削平状況から,旧地形が中央部で1メートル程度も高い小丘状の地形と復元され,そこが選地されたものと考えられる。既出土品もこの墓地内出土であることが確認された。そこで出土土器を検討すると,南小泉2式の杯や椀や高杯があり,既出土の初期須恵器も削乎された墓からの出土として,まず須恵器から5世紀後半代がおさえられ,12号墓の土師器椀片(今回末掲示)や15号墓の須恵器蓋が6世紀初めに降るとみた場合でも,そこまでで下限がおさえられる。上限は中央部の10号墓や既出土の北大式土器,赤彩の杯などが材料となる。10号墓の片口は北大1式でも古手のものである。北大1式の成立は,宮城県伊治城遺跡や木戸脇裏遺跡の北大式土器と土師器などの出土状況からみて,4世紀後半に遡る可能性を残している。

土坑墓群

土坑墓遺物出土状況

ガラス小玉

石製平玉

10号墓の北大式片口

15号墓の赤彩土師器坏

文化交流の視点 
 10号墓からは,琥珀の玉類がまとまって出土し,続縄文文化の玉の伝統や古墳文化で用いられる琥珀の玉やその産地との関連が注目される。その他にガラス玉や多量の石製平玉が古墳文化から持ちこまれ,身を飾っていたことに注目すべきだろう。鉄製品も各種のものがみられ,供献に使われたであろう須恵器にもみるように古墳文化との強い関係と同時性も知ることができる。一方では袋状小穴などをもつ墓のあり方や葬送を伺わせる遺跡のあり方からみて,墓制は全体として前代の後北式以来の北方の要素をひくものであり,土坑墓の伝統は後代に続いていく。そこで文化の基調を後北式の伝統に置く考えも成り立つが,もう少し客観的な評価もありうる。玉類はここで転換するし,鉄器も多くなる(但し武器は目立たない)。土師器や須恵器も多い上に食器や供献などにはこれらが使われたとみられる。この遺跡でその点を認めた上で,古墳文化の成立とほば併行して成立し存続する北大式土器そのものに注目したい。この土器は饗や片口からなり,宮城県北部まで広がり,土師器などと混ざって検出される。その状況は,比率は異なるとはいえ,北海道道央部まで土師器の食器類や古式須恵期が出土している点で共通性があることがわかる。また北大沁ョの甕は,前時代の後北C2−D式の深鉢と比べると,甕としての頚部のくびれをもち,そこに徴隆線文帯をまわしたり,突癌文をめぐらす。体部文様は後北式の伝統から急速に変化をみせていき,箆磨きなどが多用されるようにもなる。この北大式の成立には後北式の要素の他に,突癌文にみられるサハリンなどの土器との関係,饗の形や口縁部処理,箆磨きなどにみられる南方の手法も関わって広域の様式として成立した可能性が高い。そして伝統にない器種は持込まれ,次第に本格的な構成要素となっていくことが伺われる。

5世紀前後の北部日本の文化領域 
 土器の構成様式の成立や装身具や鉄器の波及は,北部日本の広領域で認められるが,他にもこの地域を結びつけるものがある。黒曜石片の墓への投入は,儀礼化した段階のものであろうが,宮城県から北海道東部まで各地の石材が肉眼的に認められた。このような現象は他遺跡でもみられる。本来黒曜石製石器は狩猟用だけでなく、皮革製作の伝統も示す。黒曜石の搬入は伝統化した強い交流を語るものであろう。また古墳文化との交易品としては,それまで在地で用いられていた琥珀や海陸の獣皮や羽などが,恐らく後代と同様に流通経路を形成しつつ運ばれたことであろう。この時期に北方の広領域をまとめて一定の文化と交易・交流の体制が構築されている。それを担なった人々円形刺突文士器文化領域が,史上に表れる蝦夷の成立の基盤をなすのであろう。なお,奈良平安時代には,森ケ沢遺跡付近は都母の蝦夷の地として史上にみえており,農耕文化もとりこんだ後代の蝦夷たちの大集落の状況がかいま見られたことになる。
(「蝦夷の墓ー森ケ沢遺跡調査概要」国立歴史民俗博物館 1994年3月)


 調査概要書が刊行されて数年経過しても、地元には正式な発掘調査報告書が刊行されたとの知らせは届きません。風聞では、遺物整理作業を手伝っていた大学院生が就職してしまっため、作業がストップしてしまっているとのこと。遠く離れた千葉県佐倉市では、発掘調査に手弁当で駆けつけた地元研究者が行って手伝うわけにもいきません。一部では「もう、正式発掘調査報告書は出ないのでは?」と噂されました。そして、1998年、調査担当者だった方は、考古学関係の雑誌に「本州北部の続縄文文化ー森ケ沢遺跡を巡ってー」というレポートを発表しました。概要書以降の知見を加えて論じたものです。レポートですから、遺構・遺物の詳しい説明・実測図・写真等は望むべきもありません。「ん?これでお終いにされてしまうのかな?」と、噂されました。

 それから、はや3年。21世紀を迎えました。1993年に発掘調査が行われてから、8年が経過しました。発掘調査の際は、実測図や写真等の記録は取られているものの、実際報告書をまとめるとなると、発掘調査の時、頭に刻み込まれた色々な印象が必須となります。発掘調査報告書は、年数が立ちすぎると書けなくなるといわれる所以です。このような事態に立ち至ると、過去の事例に照らしてみると、正式な発掘調査報告書が刊行される見込みは、ほとんどないと言って良いのではないでしょうか?そして、遺物の地元への返還は、「まだ、遺物を整理中」という名目で、「永久」に実現不可能なのでしょうか?

 いやいや、そんなことはあるはずもありません。戦前ならいざ知らず、今は戦後で、研究者の方々は常識的に文頭で述べたような「文化遺産は地域住民のものである、そうでなければ意味がない」という意識の元に研究しているはずです。同じ歴博の「十三湊遺跡担当チーム」が私たちにそれをはっきりとした形で見せてくれました。「調査担当者の方、良い見本がすぐ身近にあります。手弁当で応援してくれた地元の人たちの志を無にしないためにも、あきらめずに正式発掘調査報告書の完成を目指して努力して下さい。」そして、完成の暁には、出土遺物を地元天間林村へ返還していただき、お墓から「持ち去られた」副葬品を「元の場所」に戻してあげようではありませんか。それが今に生きる私たちが「研究」という名目で墓を開き、千数百年の眠りから目を覚まさせたことへのせめてもの償いになると思います。
 (2001年7月追補:2000年11月に発覚した「旧石器捏造事件」に関連し、文化庁は未刊発掘調査報告書の調査を全国的に実施したようです。当然のことながら森ケ沢遺跡の発掘調査報告書もリストアップされたことでしょう。国立の研究機関=現在、独立行政法人?としてお手本を示して欲しいとエールを送るものです。)(2001年7月再掲)

 
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