阿光坊遺跡は今

小谷地 肇


 小谷地肇さんは下田町在住の考古学者で、「はじめのホームページ」の開設者でもあります。案内人のたっての依頼で、下田町阿光坊遺跡の現状についてレポートを書いていただきました。お忙しい中、執筆していただいた小谷地さんには厚くお礼申し上げます。


「古墳の北限説に一石 県文化課や弘大など今日現地調査(1987年5月21日 デーリー東北) 

 上北郡下田町阿光坊の北東の高台にある十三森遺跡付近の畑から、奈良時代に装身具として使われていたと思われる勾玉(まがたま)と管玉(くだたま)の玉類4点が見つかった。県文化課で鑑定中で今月中に結論が出るが、今日21日、県文化課や弘大などが現地調査をする。古墳の北限(八戸市)に一石を投じそうだ。 

 この勾玉と管玉は古墳時代を代表する被葬者の装身具。現在、北限の古墳と見られている本県唯一の鹿島沢古墳群=八戸市根城=からも昭和43年に勾玉、管玉などが出土している。十三森遺跡はいまだ埋葬施設が見つからず古墳と確認されていないが、勾玉と管玉の出現によって古墳である可能性が強まった。町では12日にこの出土品を県文化課埋蔵文化財班に鑑定を依頼、今月末までには鑑定結果が出る予定だ。これまで長年、十三森遺跡の調査・研究をしている町文化財保護審議会の成田健康委員長(75)は「この玉類は奈良時代の装身具と見て、ほぼ間違いない」と話しており、今回の発見は古墳の北限説をくつがえす大きな手がかりとなりそうだ。

 発見したのは同町阿光坊の農業成田吉三郎さん(67)の妻フミさん(61)。先月29日、長イモ掘り作業中、土中1メートルの所から勾玉3点と管玉1点を見つけた。さっそく報告を受けた成田健康さんが実見した結果、勾玉(長さ3.2センチ、幅1.3センチ)は茶系のメノウ製で、管玉(同4センチ、同1.3センチ)深緑の水晶製(はじめ註 碧玉製)だった。両方ともひもが通るように穴が開けられている。

 文献によると、各地の古墳から出土した主な装身具はこのほか金銅製の冠帽、帯金具、金製の耳飾りなど。特に首飾りの管玉、勾玉は古墳時代を代表する装身具。

 健康さんによると、畑になる以前の昭和20年代までは、この土地に高さ2mほどに盛られた塚が2基あったという。この塚からは同十年に石帯・丸靹(まるとも)や50年には鉄製の直刀、茎(かなご)(はじめ註 なかご?)のほか土師器などが見つかっている。また現場は確認されていないが東京人類学会雑誌第15巻169号に、「阿光坊から剣型石製模造品が出土。七戸町の成田券治氏所蔵」という報告文が寄せられている。この石製模造品は古墳に副葬するために製作されたものだと言われており、この一連の出土品を考え合わせれば、十三森山は古墳である可能性が極めて高くなった。

 十三森遺跡は阿光坊集落を通る国道45号から北東約6百メートルの杉林の中にある。この辺一帯には70余りの大小の塚が点在する。十三森山の伝説は、各所に広く語り継がれているが、現在ではこの塚が古墳であるのか、それとも地名が示すように十三森信仰の塚なのかはっきりしていない。

 しかし、この発見により県文化財保護審議会副会長の小井田幸哉氏=八戸市=は「以前から古墳ではないかと思っていたが、勾玉と管玉が見つかったことにより、一層古墳である可能性が強まった」と述べ、「今後、慎重にこれらのモリを発掘するならば、必ず大きな成果があるはず」と学術発掘に大きな期待を寄せている。


 そうして計画をたて、次年度発掘調査が行われる。


「最北の古墳?解明へ 勾玉や管玉出土の阿光坊遺跡 下田」1988年4月26日読売新聞)

 長イモ畑から古墳の副葬品とみられる勾玉(まがたま)や管玉(くだたま)が出土した上北郡下田町の「阿光坊遺跡」について、同町教委が8月に発掘調査を始める。古墳と確認されれば、わが国最北の古墳となる。県内では昨年、弘前市の砂沢遺跡で弥生時代前期の水田跡が見つかったり、八戸市の丹後平古墳群からは獅噛式三塁環頭大刀が全国で初出土した。今年はほかにも相次いで遺跡調査が予定されており、さらに話題が増えそうだ。

 「阿光坊」遺跡の現場は、奥入瀬川と東北本線にはさまれた台地。昨年四月、下田町阿光坊の農業成田吉三郎さん(69)が長イモを植えるため、機械で畑を地下1メートルほど掘り返した跡勾玉5個と管玉1個を見つけた。五十年には約20メートル離れた場所で、直刀が出土。また土師器(はじき)の破片も見つかっており、付近に古墳がある可能性が強まった。

 発掘調査は文化庁の補助を受け、三ヵ年事業で行われる。今年は八月一日から十二日まで、勾玉の発見場所を中心に焼く千七百平方メートルを網の目状に発掘。来年以降は範囲を広げることにしている。

 「阿光坊遺跡」は、古墳の北限とされる八戸市の鹿島沢古墳群の北約十五キロにある。また、同市の丹後平古墳群からは昨年、珍しい獅噛式三塁環頭大刀が出土。700年前後に、当時「蝦夷(えみし)の地」と呼ばれていた東北北部の豪族が、すでに大和朝廷と交流していたことが裏付けられた。今回、阿光坊遺跡で古墳が発見されると、古墳文化の北への広がり方を探るうえで重要な手がかりになるとみられる。しかし、現場は四年間、長イモ畑として地下深く耕されているため、古墳があったとしても破壊されている恐れもある、という。

 一方、現場から約二百メートルの地点には、五十八基の塚が群集する十三森遺跡がある。塚の一部からは、平安時代に官位を受けた役人が身につけたとされる石帯(革帯のバックル)や直刀が出土しているが、古墳であったのか、単なる信仰の対象であったのかは、はっきりしていない。いまのところ阿光坊遺跡との関連は薄いとみられているが、阿光坊遺跡の発掘が、十三森遺跡の解明につながる可能性もある。


 こうして発掘調査が3ヵ年行われ、12基の円形周溝墓、2基の土壙が見つかり、大刀鉄鏃などの鉄製品、や土器、須恵器などが多数出土することになる。新聞紙上やテレビを賑わせた。「本州最北の・・」は今や(当時も?)ナンセンスであるが・・。

 さて、10年程まえ、これほど熱く語られた“阿光坊遺跡”だが、現在どのような状況にあるだろうか。長芋の耕作は発掘調査以降にも継続され、それによって消滅した部分も存在する。補足すると、当時の発掘調査計画は畑全体に及んでいた。しかし実際には全体の1/5程度しか調査されていない。つまり残りの4/5が耕作によって未調査のまま破壊されつづけているということだ。故人となった成田健康さんがごらんになったらなんと嘆かれることだろう。


(阿光坊遺跡から西を望んだ風景-シュミレーション)

 こうしたことから、少しづつではあるが、阿光坊遺跡周辺の調査を平成11年度から開始している。まず、南側に隣接する天神山遺跡の試掘調査、北側に隣接する十三森(2)遺跡の発掘調査そして阿光坊遺跡自体の調査である。平成12年度までの成果をまとめると以下のとおりである。

 天神山遺跡はトレンチ総延長742m、約25,000平方メートルを対象とした試掘調査をおこなった。範囲はまだ確定出来ていないので今後も継続予定。出土遺物や平面形から、阿光坊遺跡と同内容の墓群が広がっていることが確認されている。なお、トレンチが十三森(2)遺跡まであと100m余りにせまり、墓がさらに続いていると予想されることから無関係とは考えられなくなっている。

 十三森(2)遺跡では、遺跡全体に等高線を引き、図化する作業を行い60基の塚を確認した。また10号墓を発掘調査したことにより、9世紀後半から10世紀前葉にかけてつくられた墓が含まれることが分かった。

 阿光坊遺跡自体では、一部破壊状況の確認のため調査した。長芋耕作により消滅している部分があり愕然とした。予想していた事ではあったがショックだった。しかしトレンチャーによる撹乱を受けながらも幾つかの墓壙が残っており、大刀や鉄斧などが出土している。

 これ以上破壊が進まないよう手立てを模索しているが、最終的には重要な遺跡であることを理解してもらうほかない。貴重であるという要素を付加しなければならないと思う。10年前を越える盛り上がりがいつか来ることを願っている。


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