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 青森市にある国の特別史跡―三内丸山遺跡では、最盛期に人口が500人も住んでいたと一般にいわれています。多くの考古学専門家の方々と同じように、案内人もこのことを信じることができないのですが、世上ではそのようにいわれ、「真実を伝えること」が社会的責務であるはずのマスコミまでがそのように伝えています。100人の世間一般の人に、三内丸山遺跡では最盛期に何人の人が住んでいましたかと問えば、おそらく95人以上の人が500人と答えるであろうくらいに、世間を席巻しているといっていいでしょう。

 それでは、この「人口500人説」がどのようにして生まれたのか、そのルーツをたどってみましょう。案内人の知る範囲では、その初源は北のまほろばシンポジューム実行委員会、朝日新聞社、青森朝日放送の三者の主催で、1994年9月15日に青森市文化会館で開かれた「北のまほろばシンポジューム」の席上ではなかったかと思います。「完全記録 三内丸山遺跡」(朝日新聞社刊 1994年)から関係部分を以下に抜粋してみます。


司会―森 浩一(同志社大学教授) 

討論参加者―・岡田康博(青森県埋蔵文化財調査センター主査) 
・藤田富士夫(富山市教育委員会事務局主幹) 
・野村 崇(北海道開拓記念館主任学芸員) 
・宮本長二郎(東京国立文化財研究所修復技術部長) 
・村越 潔(弘前大学教授) 
・大林太良(東京女子大学教授)

(註:肩書きはいずれも当時のものである)

 


:(前略)三内丸山遺跡のもっとも繁栄したときに、人口はどれくらいと考えるか。印象でけっこうですから。

藤田:やはり、4、500人かなと思います。

:高校の教科書にはよく数十人と書いてありますね。「縄文人は数十人でムラを作り」と。

野村:昨日見せてもらいまして、三内丸山遺跡は特別だと思いましたが、それにしても一時期100軒ぐらいあって、普通1軒4人から5人といえば藤田さんと同じくらいになります。4、500人くらいになりますか。

宮本:いま発掘している範囲だけですと、そんなにないでしょうけれど、まだ東と西に伸びることを考えると4,500人あってよいのではないかと思います。

:なにか数字がえらく似てきましたが、村越さんはどのくらいの人数ですか。

村越:たいへんな数になるのではないかと思います。三内丸山遺跡で発見されている土器型式でいえば、前期の円筒下層のa式から、中期終末の最花式というか中の平3式というか、それまでが11型式あるのです。11型式あって、先ほどの岡田さんの話ですと、今はまだ400何十軒なのだが、全部発掘するとその倍はあるのではないかということです。そうすると、仮に900あるか1000あるか、それを11で割ってみると、土器の一型式に何軒ぐらいあったか。多いときもあれば少ないときもあったでしょうけれども、単純にそぅいう点から考えると、先ほど大林先生が、500人というのが一つの組織の目安になるという話をなさったのですが、場合によっては、それぐらいは十分いたのではないかというふうに考えます。
 そういう点から、とても野山に採集にいくだけでは食料を獲得できないのではないか。ある程度は栽培していたのではないか。そうでないと、食料を確保することはむずかしかったのではないかと考えてみたのです。厳密に何人かというところまでは計算はしていませんが、500人は超えるのではないかとも思います。

:大林さんも500人ですか。

大林:村越先生がいわれたように、三内丸山遺跡を拠点として、植物を採集したり動物をとりにいくとして、普通の場合、キャッチメントの距離を5kmと考え、あの集落から5km以内の距離でもって食料を獲得していると考えると、とてもそんな大勢の人口を養えないと思います。だから当然、交易による収入というのは、表現はおかしいかもしれないが、それがないといけない。そうすると当然、食料の貯蔵を集落の中でやらなければ、集落を維持できないだろう。だから、人口の問題は食料の貯蔵という問題がかかわってきます。
 それからまた、人口1000の集落をもつ社会、つまりその文化、あるいはその全体社会のなかでもつて、一番大きな集落が人口1000というと、これは白人が入ってきたころのスマトラのバタック族とか、あるいはニュージーランドのマオリ族がだいたいそれくらいなのです。これはもう小さい国家をつくつているような、あるいはもうじき国家というような段階なので、もちろん農耕民です。三内丸山遺跡は全体的な印象からいって、とてもそういうところまではいっていない。そうすると、1000人までは絶対いっていないだろう。いくのは無理だろう。
 とにかくそれでどの程度の組織があったのか。先ほどいいましたように、500人というのが普通に目安としていわれるのですが、もちろん一時的に500人を超すとかということはあるでしょうが、それを長期間維持するためには、地縁の原理か血縁の原理か、何かしかるべき組織を作って運営しないと、長期間は持たないわけです。いったい、どういうような組織が考えられるのか、というのが全部からんでくるので、現在の段階では、そういう組織らしい組織なしでやっていたとすれば、500人が限度だろう、というくらいのことしか申し上げられません。



 このように、まず、著名な考古学者の森 浩一さんが「印象でけっこうですから。」と前置きしながらも、三内丸山遺跡の人口はどのくらいだったか、と誘いをかけます。根拠を明示してなら、どなたもなかなか発言しづらいであろう質問に、著名な考古学者・建築史家たちが次々に具体的な数字をあげていきます。藤田さんがたった一言、4、500人、と口火を切ると、次々、それにみなさん賛同していく。一時期100軒、1軒に4,5人の人が住んだとして総勢4,500人、というところに落ち着いていく。どうして一時期100軒と考えられるのか、誰も明らかにしない。いや、最初からそんな根拠を司会者は求めていないのですから、自由気ままでいいのです。シンポジューム参加者へのリップサービスといってしまえばそれまでですが、考古学の世界ってこんなに簡単に「結論」が出てしなうものなんですね。いや、現実はそうでないですよね。こんなこと、専門家同士の研究会などで言おうものなら、その根拠を示せと激しく迫られ、以後、白眼視されてしまいます。会場の熱気や遺跡への国民の期待感が研究者たちを「熱病状態」にさせてしまったのか?いや、司会者のシナリオどおり進んだと見ていいでしょう。なぜなら、森さんがたった一言、「500人と考える根拠をきちんとしめしてください」と問えば、みなさん口をつぐんだはずですから。発掘途中の、発掘調査報告書も刊行されていない段階で、遺跡の評価にかかわる「大事」があっさりと決められてしまい、千人を超えるシンポジューム参加者に伝えられ、さらにマスコミを通じてさらに拡声されていきました。これは、どこかで私たちが見たことのある構図にそっくりです。


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