青森市小牧野(こまきの)遺跡

遺跡遠景(北西から-青森市パンフレットから)


遺跡位置(50m等高線)


遺跡の1/25000の地形図(カシミール3D+国土地理院地図画像)


遺跡景観図(遺跡南から-カシミール3D使用)

 小牧野遺跡は、青森市の中心部から南へ12Kmほどの標高140〜150mの台地上にある、今からおよそ4000年前の縄文時代後期の遺跡です。大規模な土地造成と特異な配石によって構築された環状列石を主体とする遺跡です。

 昭和53年(1978)発行の青森県遺跡地図には、小牧野遺跡はプロットされていませんので、公的に認知されたのはこれ以降ということになります。詳しいいきさつは窺いしれませんが、県の遺跡台帳に登録されたのは、昭和55年頃のようです。いずれにしても、青森市内の中心部から遠くはずれ、山林の中という悪条件が遺跡の発見を遅らせたと同時に、昭和年間までほとんど手つかずのまま遺跡が結果的に保護されていたともいえます。                                     

 昭和50年代後半には、当時、青森山田高校に勤務されていた葛西励先生が続縄文時代の遺物を発見し、注目されるようになりました。昭和60年(1985)に青森市教育委員会が高田村史編さん事業の一環として発掘調査を実施しており、この際、縄文時代後期前葉の土器・石器等が段ボール箱で約2箱分の遺物が出土しています。環状列石は、平成元年に青森山田高等学校により発掘調査が実施され、約4000年前の縄文時代後期環状列石の西側約半分を検出しています。遺構の残り具合は非常に良く、後に「小牧野式配石」と呼ばれる特異な石の並べ方をしていたことなどから、研究者の注目を浴び、また、新聞等で大々的に報道されました。このときの調査は、開発に伴う緊急調査と違って純粋に学術的に小牧野遺跡の解明を目的として行われたもので、調査経費も全額、葛西・高橋両先生が工面したものと推察されます。また、青森山田高校考古学研究会の関係者総出で発掘調査は行われたものと思われます。まさに手弁当発掘といっても過言ではないでしょう。この時の発掘調査がなければ、小牧野遺跡の巨大な環状列石が世に知られることもなかったと思われ、この遺跡の発掘史を語るとき、画期的な調査と位置づけられるでしょう。ちなみに、このときの調査に、後年、自らが発掘調査担当者となり「ミスター小牧野」と呼ばれるようになった児玉大成さんが参加しています。彼はこの時以来、小牧野遺跡の「魔力」にとりつかれたようです。(児玉さんは、なんと、この遺跡で自分の結婚式まで挙げてしまうのです。)

 平成2年度以降、青森市教育委員会は遺跡の重要性に鑑み、「小牧野遺跡発掘調査会」を組織し、環状列石の解明および史跡公園の実現のため、継続して国ならびに県の補助金交付を受けて発掘調査を実施していきます。平成2年度〜3年度までは、環状列石の全体像を確認するために調査を実施しました。平成4年度〜6年度は環状列石構築期の居住区域及び遺構配置を確認するため、配石周辺部の調査を実施しました。また、平成6年度に小牧野遺跡を「生きた歴史学習体験の場」として整備活用するため、「小牧野遺跡整備基本構想策定委員会」を組織しました。さらに、平成7年3月には国史跡の指定を受け、史跡公園早期実現のため、史跡周辺の公有化なども進めています。このため、平成7年度からは史跡公園として整備していくうえで、遺跡の範囲を確定することが急務であると考え、遺跡範囲の把握を中心に調査を実施しています。 

 次に、小牧野遺跡の特徴を「青森市小牧野遺跡整備基本構想」から抜粋します。「環状列石は、墓や葬送、祭祀、儀礼に深く関わるもので、多数の石を大きく円形に並べたもので、ストーンサークルとも呼ばれ、膨大な時間と労力をかけ、その時代の先端的な土木技術を駆使して作られており、縄文人の組織力を見せつけるモニュメントでもあります。

 本遺跡の環状列石は、斜面を平坦にするという土地造成の後、付近の川から運ばれた約2,400個もの自然石によって作られ、直径35m、29m、2.5mの3重の輪から構成されています。列石は、縦横に石垣状に組まれ「小牧野式」とも呼ばれる全国にも類例の少ない特異な形態を呈しています。

 これまでの調査では、3重構造の環状列石のほかに土器棺墓や土坑墓群、貯蔵穴や捨て場跡、道路跡等が見つかっています。遺跡の性格としては、この周辺に集落跡の存在が考えにくいことと環状列石内の土器棺墓や隣接する墓域の存在等から、集落から分離して形成された埋葬地であった可能性が高く、この埋葬地のシンボルとして環状列石が構築されたものと考えられます。

 小牧野遺跡の環状列石は、年間を通じて一般の方々に無料無人開放されています。ここからさほど遠くない場所にある国特別史跡の三内丸山遺跡のにぎわいが嘘のように静まりかえっている小牧野遺跡。同じ国史跡でありながら、こんなにも見学者数や遺跡整備・環境整備に好対照を見せる遺跡もなかなか、無いかもしれません。しかし、発掘調査当時のまま環状列石などがおかれているという、本物だけが醸し出す遺跡のたたずまいは、三内丸山遺跡の比ではありません。復元づくしの三内丸山遺跡は、誤解されるのを省みずに表現すると、ある意味では「テレビドラマのセット」かな?と思うときがあります。おどろおどろした「舞台セット」を用意して、これまでの縄文観を塗り替えました-などと言って欲しくないなあ。それに比べて、小牧野遺跡は市街地のはずれの森の中に密やかに残された「縄文空間」といった趣があります。交通の便の悪い小牧野遺跡に直接足を運んだ人たちは、間違いなく、ここまで足をのばしてよかったと思っているようです。まるで、自分だけの宝物を発見したかのように。三内丸山遺跡-青森県管理、小牧野遺跡-青森市管理、と対照的な遺跡ですが、「遺跡の整備はいかにあるべきか?」といった命題に一つの方向性を垣間見せてくれる遺跡に間違いありません。


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