田舎館村垂柳(たれやなぎ)遺跡


遺跡位置
遺跡から西を望む

水田跡遠景

水をたたえた水田跡

水田の大きさ

水田に残された足跡

 垂柳遺跡は、弘前市の東隣の田舎館村に所在し、昭和30年代に行われた水田の区画整理事業の際に炭化米と共に弥生時代の土器が出土し、全国的に名が知られるようになりました。
 当時、東北大学におられた伊東信雄先生は、この地で紛れもなく水田が作られた証であるとしたが、米は南方より移入されたものであるとの説が大半を占め、長い間認められませんでした。
 その後、昭和50年代半ばに遺跡の近くをバイパスが通る計画がなされ、事前に発掘調査が行われることとなりました。昭和56・57年度の2カ年にわたって行われた調査の結果、弥生時代中期(およそ2,000年前)の水田跡が656枚も発見され、間違いなく津軽平野で当時、稲作農耕が行われていたことが明らかにされた画期的な発見でした。20年以上も「無視」されてきた東北地方北部での弥生時代稲作農耕が誰にも否定できない事実となった調査でした。
 参与として昭和56・57年度の発掘調査に参加された伊東信雄先生は、発掘調査報告書の序文に次のような言葉を残しています。 


  「昭和57年、58年の両年度にわたって行われた垂柳遺跡の弥生時代水田跡の発掘調査報告書が出来上って、今回刊行されるはこびになったことは早くからこの遺跡にかかわりを持って来た者としで悦びにたえぬところである。

 両年度の調査で整然と畦畔が並んだ水田跡が656枚も検出され、その聴面積は3,967平方メートルに達しているが、なお東、西、南の三方に拡がっている模様である。水田跡からは炭化米、イネのプラント・オパール、水田雑草、田舎館式土器なども検出されて田舎館期に津軽平野で水田による稲作農耕が行われていたことは否定することの出来ない事実となった。

 津軽地方にこのような整然たる水田が弥生時代に営まれていたことをいままで誰れが想像したであろうか。私は早くから津軽平野で稲作が行われていたことを主張していたのであるから、稲作の場である水田の存在したことは当然考えていたのであるが、それにしても初期の水田は自然の低湿地にバラ播した程度のもので、このような畦畔や水口、水路を有する相当発達した水田が存在していようとは夢にも思わなかった。私は発掘された垂柳の水田跡を見て、東北北部の弥生時代の稲作農耕技術がすでに相当高いレベルにあったことを感ぜざるを得なかった。だいいち北緯40度を超える高緯度の地で、いまから2000年も前から水田による稲作農耕を行っていた処は東北北部以外には世界にその例がないのである。青森県は耐冷性品種のイネが育成された現在でも冷害による凶作に悩まされる年の多い処である。文献的には古代のこの地方は、蝦夷の住んでいたところで、蝦夷は農耕を知らない狩猟採集民であったと言われていた。それが実際には相当発達した稲作技術を持ってコメを作っていたことが、垂柳水田の発掘によって明らかになったのである。これは日本古代史研究上の革命的な発見である。

 私は自分の唱えた学説が間違いでなかったことが垂柳水田の発掘によって証明されたのを悦ぶと共に、なぜ青森県のような気候冷涼の地に稲作が可能であったのか、垂柳水田によって代表される東北北部の稲作農耕がどのようにしてはじまったのか、またそれがどのように変化して今日に至ったのかについて、今後も自然科学者をも含めた同志とともに研究を進めて行く必要があると感じている。

 多くの調査関係者諸君の労を謝するとともに、その努力の結晶である本報告書が将来の研究の重要な手掛りとなり、日本の学界へ寄与するところ大きいことを信じて疑わない。

     昭和60年3月

             垂柳遺跡発掘調査会 参与 伊 東 信 雄」

(「垂柳遺跡発掘調査」青森県教育委員会 昭和60年3月より)

 この時の調査で発見された水田跡の良好な部分は、上部に橋を架け保存されました。その後、地元田舎館村教育委員会によって範囲確認調査が継続して行われ、平成12年にようやく国史跡に指定されました。弥生時代の水田跡が発見されてからおよそ20年の月日が経過し、すでに伊東信雄先生はお亡くなりになっていました。教科書を書き換える程の大発見と当時マスコミで報道された遺跡でも、国史跡指定への道のりは果てしなく遠いものでした。関係者の方々のご尽力に深く敬意を表するものです。

 また、2000年4月には遺跡の近くに田舎館村立埋蔵文化財センター弥生館がオープンしました。遺跡の全容を知るには格好の施設です。近くまでお出での方は、是非、お立ち寄り下さい。(2001/01/20)


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